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雲のはたて

石牟礼道子さんの全集を、よく読む。
ふれるたび、思い出すということを思い出す。

石牟礼さんは古いことばをよくつかう。
(能く遣う、とも言える。能力として、とき放っているというか)

好んでつかわれている印象的なことばが「はたて」。
はたてとは、果てのこと。漢字としては、涯をあてたりもする。
遠ざかったはるかむこうの果ての果て、いちばん遠くにあって、見えなくなってゆくような、消え果ててしまうような奥の奥、そんな場所。
石牟礼さんが「はたて」というとき、その果ては深遠な響きを持って、とおざかり、消えそうになり、逆になにかにとけまざるように、広大にひろがる。

夕暮れは 雲のはたてに ものぞ思ふ 天つ空なる 人を恋ふとて

これは古今和歌集にある詠み人知らずの歌。「はたて」ということばをつかった代表的な歌としてよく紹介される。
夕暮れになって、雲が色づいてゆく。あわあわと夕映えをうける雲が西の空にたなびいている。その雲のいちばん遠いところ。果ての果て。消え入りそうな遠くを眺めやって、手の届かないはるか遠くにいる人のことを想う。
この歌を知ったとき、千年たっても人は変わらないな、と思った。
ふと見あげた西の空の、夕暮れに染まる雲のはてに、自分の届かない想いを重ねる。
昔も今も、ずっとくり返されてきたことなんだと思う。
「恋ふ」ということ。


具体的な対象なんてなくても「恋ふ」ということは成立する気がしている。
出会ったことのない、まだそこにいない存在を想う。あるいは、とくべつな対象をもたない。それでも心のざわつくような、ただただ焦がれるような状態になる。かたちをもたない、ゆくえのしれない、恋ふというありかたが、ふいに巡ってくるということはあるんじゃないかな、と思っている。


大人になるまえ、まだ実家にいた子どものころ、畑でよくものを燃やした。西の畑といわれたところでひとり薪に火をつける。いまは野焼きがうるさく言われているけれど、辺鄙な農村集落で小さな火を焚くことはわりあい日常的におこなわれていて、私はなぜか火を焚くことがとても好きだったので、よく頼まれてゴミや枯れ枝を燃やす係をしていた。
風のふく方角を読んで薪をくみ、都度都度ふき変わる風向きに応じて薪の位置を変える。そうするとよく燃える。田畑のひろがる平原をわたってくる風はとても自由に動く。逆巻いたり渦巻いたり。遊ぶようにうごく風の、ふくままに火を焚いてもらう。
焚きおわると、なぜかよくわからないけれど目がとても澄む。視界がいつもよりすっきりして、遠くまでよく見えるようになる。
そういうときに畑からむこうにひろがる西のほうを見ていた。
地平線がみえそうなくらいはるかにつづく田んぼのむこうの、青く小さくつづく山なみ。たなびく雲。夕焼けにそまった雲のはて。

ことばにすることはできなくても、いつもは感じないはずのなにかを感じて、ずっと眺めていた。
そのときの感じは、「恋ふ」そのものだった気がする。
とくべつな対象などなくても。あるいは、かつてあっただれかの「恋ふ」を思い出していたのかもしれない。何千年もくり返されてきたなにかを感じとって、私もまたその状態になっていたかもしれない。
具体的な対象や、ゆくえなどなくても。しんと、かなしく、なにかを想う。「恋ふ」というのは、そういうことだと思う。
夕暮れを眺めるときに、立ちあがってくるあの感じ。
雲のはたてに心を寄せて、そこに届かない想いが重なって、いまの自分など透きとおりそうになり、遠ざかったむこうにある、消え入りそうな、なにかにとけまざりそうな、はるかな場所を想うこと。



夕暮れ、ふと空を見る。
色づいた雲のたなびくのを眺める。だれのものともつかない古い記憶を思い出す。そのとき人は、やっぱり「恋ふ」ている。

何年たっても、何千年たっても、きっとそれをくり返すんだと思う。


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