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ふたりで歩く

先日、祖母の一周忌があった。
一年のはやさと、それでもたしかに経過した一年の長さを思った。法事は内々だけのこじんまりとしたもので、田舎独特のゆるさと、和やかさと、いい加減さがあってよかった。

お寿司屋さんでの食事は宴会そのものだったし、子どもたちは駆けまわる。瓶で出てくるジュースやお酒の王冠を競って集めて子どもたちは遊ぶ。大人たちはビールやお銚子片手に談笑する。

祖母の遺影の前にはちゃんと一人前の陰膳が置かれていた。

生きていようと、死んでいようと、変わらない存在のたしかさがそこにあるようで、なんだか、いいな、と思った。


祖母だったらどういうふうに見るだろう、とよく考える。

いま生きている自分の世界が、祖母の目を通したらどんなふうに映るだろう。
戦前に生まれて尋常小学校を出たのち農家に嫁いだ祖母。毎日毎日農作業に明け暮れ、田畑とともに生きてきた。
私が本を読んでいると、
「おらも昔は本読んだんだで。アレとか読んだど。なんつんだアレ。アレだよほれ、リヤ王」
と、リヤカーと発音するのとほぼ変わらない口調でリア王の名を口にする。
(戦前の小学校教科書にはリア王が載っていたらしい)


祖母が本など読む姿をかたときも見たことがなかったので、
「“もーぱっさん”も、読んだんだど」
と言われたときにはずいぶん驚いた。

私はモーパッサンを読んだことがなく、でも代表作『脂肪の塊』という名前だけは浮かぶ。
そして、かつて若かりし頃ふくよかだったため祖母が「樽大根(たるでえこ)」というあだ名で呼ばれていたことも同時に思い出して、その自分の発想の業の深さに申し訳なく思った。


ほんとうは本をたくさん読みたかったのだそうだ。

そうはいっても貧しい農家の嫁という暮らしが本を読むことなど許してくれるわけはない。
小学校を出たあとは読み書きなどほとんどしないままだった。

数年まえ、なぜかふと思いたったらしく、祖母は手記を書いて私によこした。
自分の人生が描かれた手記で、旧仮名遣いで、学という字も學だったし、一人称にいたっては「私」ではなく「妾」だった。どこかでとまったままのような文字たちが綴る物語。
たぶんその手記をもらったころから、祖母のまなざしが自分のなかに入りこんでいる気がする。


ものごとを見つめるとき、まるで祖母の目で見ているかのように見ているときがある。
現代を生きる自分の目ではなんとも感じなくても、土とともに生きてきた戦前生まれの目で見ていると、違和感を覚えることがたくさんある。
生前、かろうじて携帯電話という概念くらいは知っていたけれど、たぶんネットという概念のなかった祖母の目で見ていると、日々のものごとの、不自然さ、地に足のつかない浮き足だった感覚、命をもらって生きることからの隔たりなどが見えてくる。

もちろんそれは祖母のまなざしそのものではなく、私のつくりだした「祖母的なまなざし」にちがいないけれど。

でもいつも、自分のまなざしと、もうひとつの祖母のまなざしでもって見ているような気がしていて、祖母が亡くなってからはさらにそれが強くなった。
はんぶん祖母を生きているような気さえしてくるときがある。

ステレオスコープみたいだな、と思っている。

ステレオスコープは、昔はやった立体写真機器のこと。おなじ対象を写したわずかに異なる2枚の写真を左右の目で見ることで、ひとつの立体的な像を描くというもの。
詩人の萩原朔太郎が好んでいて、それで私も知った。実際にステレオスコープを見たことはないけれど、その概念がすごく好きでずっと気になっている。

おなじ対象を写したふたつの視線のずれ、その相違によって、対象が立体的に浮かび上がってくる。それは実際の現実ともちがう、幻としての像なのだけれど、単眼では見えてこないなにかが現れてくる。


現在に飲み込まれそうなとき祖母のまなざしが自分を引き戻し、過去に取り込まれそうなとき私のまなざしが引きあげる。ふたつ重なるまなざしは、この世の奥行きを陽炎みたいに立ちあげる。そこにはたしかになにかが映る。
そうしてなにかをまなざしながら、ずれを感じ、ゆれて、生きていくのだと思う。



知人の、編集の仕事をしている人とお茶をしたときに祖母の手記のことを話したら、「あなたはきっといつかそのことを書きますよ」とその人は言っていた。
「どう書くかはわかりません。あなたは、それをこれから見つけていくんだと思います」と。
そこに至るにはまだ遠い気がしてそのときは話を濁して、結局それについて一度も書いていない。書くとしてもあと十年も二十年もかかる気がする。
年々受けとった物語の重みだけ増してゆく。手記として書かれたことだけでなく、書かれなかった、たくさんのことも。



祖母の物語をどう受けとってひらいてゆくか、つなげてゆくかの結論がまるで出ないまま、でもまなざしだけは私のなかにずっと生きている。
当分こうして祖母とともに生きてゆく。ステレオスコープで見たものを像として結んで、うけとめて、ひらいて、それをくり返していたら、たぶん祖母からもらった物語をもっとだいじにできるかもしれない。



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参考資料

…絶版です。毎度毎度入手しにくい本ばかりおすすめして申し訳ありません…。


↓こちらは以前書いた祖母との思い出の話です。
もしよかったら。



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