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雨と空白

雨が降った日に傘をさして散歩をした。
林のなかには誰もいなくて、空は白かった。いつも散歩のとき耳を澄ませて聞いている鳥の声がしなくて、雨音だけが続いていた。静かだった。


生活のなかの仕事の比重が大きくなって人と会う時間もふえた。それはそれで楽しくて、でもバランスをとるようにひとりになる時間もとっている。

体はずいぶんよくなって、年明けに行ったときお医者さんは笑顔だった。
  ほんとうによくなってくれてうれしい。波はあっても過ごせているなら大丈夫。でも必ず、休み休み、です。


日々のほとんどが穏やかに凪いでいて、空白を満たそうという気持ちはないのに満ちたような気持ちでいる。突発的に声が出なくなるときはまだあって、脆さを抱えているな、とは思うけれど言葉を発せないことに焦りがなくなった。沈黙を抱く。そういうときは、自分のなかのがらんどうに響く音を、しんと聴いている。雨の降るような音色。



林のなかで雨は降り続いて傘から落ちるしずく越しに白く霞む遠くを見ている。
梅が咲いていた。臘梅。白梅と、紅梅も。しずくに濡れた春の香りがする。


今年俺のテーマは再会なんだって、と上司が言っていた  占いによるとね。
 再会。
 そう。
 再会っていうのは、昔会っていた人とは限らないかもしれませんね。
 そうそう。そうなんだよね。
 自分自身かもしれないし。過去に置いてきたものかもしれないし。
 うん。たぶんそっちなんだよね。向き合うべきことに出会いなおすんだろうね、もう一回。で、それが何かはなんとなくわかってんだよね。

雨のなかでその会話を思い出してずっと遠くを見ていた。
出会いなおす。それが何かは、なんとなくわかっている。


みぞれの降った日、ハン・ガンの言葉を読み返していた。

 だから、彼女にはいくつかの仕事が残されている:
 嘘をやめること。
(目を見開いて)カーテンを開けること。
 記憶しているすべての死と魂のために  自分のそれも含めて  ろうそくを灯すこと。

ハン・ガン『すべての、白いものたちの』


みぞれがだんだん淡雪みたいになってゆく夜に、やっぱり白く霞む遠くを見ていた。

ことばと出会いなおしてちゃんと書こうと思った。向き合ってきた長い歳月のあいだ、何年も書けなかったこともあった。漢字が読めなくなったりもした。声の出ない日はきっとこれからもある。でも休みながら、空白と沈黙を内包しながら、粛々と書こうと思う。自分が何かを得るためではなくて、ことばになろうとする音色に息をしてもらうために、ちゃんと生きようとするものを慈しむために。


雨もみぞれも。私のうえに降るものはとても優しい。豊かな沈黙に耳を澄ませる。
あなたが降ってくれたこと、こうして書こうと思った。愛しむためにたんたんとことばを連ねてゆきたい。下りてくる糸をそっと手にとって、しずかに機を織るように。


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