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アメリカン・ビューティー(感想)_自身の欲望よりも理性を優先させること

『アメリカン・ビューティー』は2000年に日本公開のアメリカ映画で、監督はサム・メンデス。
妻と娘がいるのに娘の友達に欲情する中年男が主人公という、どうしようも無い男のストーリーだけれども、エンディングはそれなりに納得感のあるものだと思う。
以下、ネタバレを含む感想などを。

家と職場に居場所がないこと

郊外に家族3人で暮らす42歳のレスター・バーナム(ケヴィン・スペイシー)。丁寧に手入れをされた庭付きの一軒家に住まい、高級家具が並ぶゆったりとしたインテリアは綺麗だが冷たい印象もある。
広告代理店へ勤めて勤続14年になるも、最近外部からやってきた年下の上司からリストラ対象者のレポートを提出するように厳命される。

妻キャロライン(アネット・ベニング)との仲は冷めており、不動産仲介で得る仕事の稼ぎはレスターより多いせいか夫を見下している。
娘のジェーン(ソーラ・バーチ)はハイスクールに通っており、娘に関心の薄い両親を信頼していない。

つまりレスターには家と職場での心の落ち着ける居場所であったり、信頼のおける親しい人がいないために生きがいを見失っていた。
また視覚的には、薔薇、玄関の扉、果物などへ”赤”がいたるところに散りばめられている。同じ赤でも薔薇のように華やかでありながらも、流れ出す血から死を連想させたりと、ひとつのモノやコトであっても、違う側面が表出することを演出していると思われる。

映画はレスター自身が1年も経たずに死ぬことを仄めかすモノローグから始まるため「自殺するのか、それとも誰かに殺されるのか」ということが頭の片隅にあるまま物語が進行する。

冒頭ではハンディカメラ越しにジェーンが父親を殺すよう依頼し、不倫現場を見られたキャロラインは銃をハンドバッグへしまったりと、誰がレスターを殺すのかとハラハラさせられるが、それらはミスリードさせる仕掛けになっている。

いくつかのミスリードさせる仕掛け

男たちと遊んでいるのを吹聴していたアンジェラが実は処女で、ゲイを激しく嫌悪するフランク大佐が実は同性愛者だったりと、本作は観る側にミスリードさせる多くの仕掛けのあるのが特徴的。

その中でもレスターがリッキーからマリファナを買うシーンが印象深い。
外から見えるレスター家の2つの窓には、ソファーへリラックスしているレスターと、かがんで作業をするリッキー、それぞれの姿が覗ける。
リッキーはマリファナを巻いているのだが、肝心の部分が隠れているからまるでレスターのモノを咥えているように見える。

映画を観ている側にはそれをネタバレさせているから、フランク大佐が雨に濡れながら訪れたのを、息子の体を金で買ったことへ逆上してやってきたのかとミスリードさせるが、実際はレスターも同性愛者と勘違いしていただけというオチ。

とにかく登場する人物それぞれが本来の姿を見られないように、弱いところをひた隠しにして虚勢を張っていて、外面と内面のギャップが激しいために人間同士の信頼関係が希薄になっている。
嘘まみれの外面は自分本位からくるもので、自分さえ幸せになれば良いというものだからどうにも印象が悪い。
レスター自身もそんな生き方をしてきたが自己嫌悪に陥っており、だからこそ18歳でマリファナを売って稼ぎ、上司に楯突いてバイトを辞めるリッキーのしたたかな生き様が新鮮に見えた。

レスターがアンジェラを抱かない理由

本作の核ともいえるレスターがアンジェラを抱かなかった理由を考えてみたい。

会社を辞めるまでのレスターは体面を取り繕って生きており、それは他の多くの人達と同様だった。
しかし自身の気持ちと向き合い正直になると会社を辞めて縛られるものが無くなり、自由を手にしたことで妻に強気な態度を取るようになって、自身が違う存在になったと考えていた。

レスターは、アンジェラが自信なさげに処女だと告白するところで思いとどまっているから、アンジェラが誰とでも寝るような女だったら行為を続行していたことが想像される。
これまでアンジェラを抱いてきたであろう他の男たちと同様と考えていたから、アンジェラとの行為は自分本位な欲望のはけ口で遊びのつもりだった。

一方、処女であるのに友人の父親ほど歳の離れた男に抱かれることを望むアンジェラの恋愛感は歪で何らかの問題を抱えていそうだが、いずれにせよ一途で純粋な気持ちではあると思う。

そういう二人のアンバランスな思惑がアンジェラの言葉によって詳らかになり、アンフェアだと考えたからこそレスターは寸前でやめられた。それはアンジェラの純粋な気持ちを踏みにじったら、かつての空虚だった自分と同じだと考えたのだと思う。

レスターが最悪の人間にならずに済んだのは、自分本位な快楽に溺れなかったからで、それは欲望より理性を優先させたからこそ。
人間同士の信頼関係は、理性を持って行動しないと築き上げにくい。
本来社会生活を送るにあたりとても大切なことの筈なのに、現代社会ではないがしろにされがちだからこそ尊く感じられる。

風で舞うビニール袋の美しさ

ジェーンがリッキーに誘われて「一番美しい作品を見せよう」と部屋で一緒に映像を見るシーンも良かった。

映像は雪の降り出しそうな寒い日、落ち葉の散らばるアスファルトの上をビニール袋が少し強めの風で踊るようにして舞うだけの映像。
それに続くリッキーの言葉から、ビニール袋を自らのなにかへ例えていることが想像れれるも言葉が難解だったので映像から受ける印象と合わせて整理してみる。

遊びをねだる子供のように
僕にまとわりついた
15分もの間…
その日僕は知った
すべてのものの背後には
生命と慈愛の力があって
何も恐れることはないのだと

リッキーに甘えるようにまとわりつくビニール袋は無邪気で純粋なしぐさを連想させるが、冬の冷えた空気という言葉と枯れ葉からは寂寥感も感じさせる。

リッキーはマリファナを売り捌いているから金銭に困らないが、厳格な父とそれに従うだけの母だから両親へ甘えたり相談することも出来ずにいて、親しい友人も不在だから心が満たされていない。
つまりリッキーは深い孤独を抱えており、甘えるようにまとわりつくビニール袋のような行動を羨ましいと感じたから、その動作を「美しい」と表現したのではなかろうか。

そして、そういう素直な感情または弱さを吐露するような友人がやはり不在で、似たような境遇にあるジェーンは、リッキーに寄り添うようにキスをするのだが、この映画で最も優しくて美しいシーンとなっている。

メディアによってつくりあげられた幸せのカタチ

本作は20年以上も前の映画となるが、物質的に豊かであっても生きる価値や意味を見いだせずにいるレスターの姿は、現代日本の首都圏に住まう人たちの姿にも重なるところがあるように思う。

少し横道へ逸れる。
家と会社の往復をしているだけの生活でも、テレビやスマホ広告、電車内のドア上のパネルやバスのラッピングまで、あらゆるスペースが広告媒体となっており、似たような広告が繰り返し我々に訴えてくる。
ローンを組んで家を購入し、不慮の事故に備えて保険へ加入し、見た目の印象を良くするために薄毛や脱毛のエステへ行き、日々の運動不足を解消するためにジムへ通って、憂さ晴らしには是非アルコールで、と。

そのような広告を繰り返して目にすることで、自分にとっての幸せや欲望が「そういうもの」だと洗脳されるようにして刷り込まれる。
そうなってしまうのには人間が本来必要としている幸福ではなく、画一的な価値観を押し付けてきたメディアの影響がとても大きいと考えている。

本来幸せの価値観は個人ごとに違うはずだ。しかし日々大量に広告を浴びせられていると、広告が広告主の利益最大化を隠したおためごかしであって、ポジショントークであることを忘れてしまいがちだ。なんなら「テレビで流れてくる情報だから正しい」と勘違いしている人だっている。
その最たる機能を果たしているのが、広告代理店なわけだがレスターの勤めていたのがまさにそれだったのは意図的なものと思われる。

メディアから流れてくる情報を鵜呑みにして、理性よりも刷り込まれた欲望や価値観を優先させたり、他人の意見を気にし過ぎていると疲弊してしまうし、他者との信頼関係を構築するのが困難になる。

断っておくが広告代理店を批判したいのではなく、自分の価値観が揺らがないようその仕組みを再確認しておきたいということで、そういう社会の行き過ぎた部分、醜悪で気味の悪い仕組みについて、えぐり出すように鋭く訴えてくるからこそ、この映画をたまに見直したくなると言いたい。


根深いテーマを扱った作品だけど、レスターのひねくれた性格のおかげで笑いどころが多いのも好きなところ。

一番笑えたのはバイト先のドライブスルーで不倫現場に居合わせたシーン。
レスターは冷静にマニュアル通りのセールストークをして、状況を察した店員が「ツイてないわね」と言うのに対して逆ギレしたキャロラインが「あなたは黙ってて」と言ったのに、「僕の上司にそんな口をきかないでくれ」と、バイトの分際でありながらプライベートな問題よりも仕事を優先するかのような切り返しが可笑しい。
正論だし、顔色一つ変えずにやたら冷静に言うから、言われた方は余計に腹が立つという。


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