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千年女優(映画)感想_結果ではなく、過程を充実させる女優のこと

2002年の映画で監督は今敏。この監督の作品では『Perfect Blue』を劇場で鑑賞。現実と虚構の入り混じる設定は似ている。そのため集中して観ないとどちらか分からなくのは同様だが、主人公千代子の演技による物語(虚構)がメインとなっている。しかし虚構が人生の大半を占める千代子の物語となるため現実と虚構を切り分けて見る必要は無いかもしれない。

<ストーリー>
かつて一世を風靡した大女優、 藤原千代子。
30年前忽然と銀幕から姿を消し、人里離れた山荘でひっそりと暮らしていた彼女の元に、時を越えて古びた小さな鍵が届けられた。
あたかもその鍵が記憶の扉を開いたかのように、千代子が語り始めたその物語は、彼女が生きてきた70数年という現実の流れから溢れだし、"映画"という幻想の海流を通って、
遙か戦国の昔から、見果てぬ未来の彼方まで広がって行く。
閉ざされた想い出に隠された千代子の秘密とは? 鍵が開いた空白の時は何を意味するのか? 錯綜した記憶の彼方にこそ千代子の真実が浮かび上がる。

現実と虚構の境界が曖昧なまま進むストーリー

映像制作会社「VISUAL STUDIO LOTUS」の社長、立花 源也がカメラマンと共に藤原千代子へ取材に行くまでのシーンと千代子の家での取材、病院でのシーンなどは現実世界での出来事と認識出来る。しかし、千代子が自らの過去を語りだすと、唐突に立花とカメラマンも千代子の出演した過去作品中のシーンへ紛れ込んでしまう。シーン中で千代子が扉を開けるなどすると千代子の別の出演作品へと目まぐるしく切り替わる。さらに、作品が切り替わっても千代子は一貫して「鍵の君」を追いかけている設定のため、自分の観ているのが千代子の出演作の劇中なのか、それとも千代子の身へ現実に起こったことなのかの境界が曖昧になっている。
しかし、千代子の語る人生の大半が女優であったということから、この入れ子構造の演出はとても効果的で、もはや現実と虚構の境を見極めることにさほど意味は無いと思われる。

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「鍵の君」を追い求める女優になる千代子

千代子は画家と思われる「鍵の君」より一番大切なものを開けられる、と鍵を渡されることになる。鍵によって開けられるのは、その時千代子の目線の先にあった画家の絵の具箱なのだろうなと思うのだけど、それだと出オチ感があるので、千代子が肌身放さなかった鍵にどういう意味があるのか、もう少し真面目に考えたい。

鍵を預かった千代子は鍵の君と離れ離れになってしまう。そのため、千代子は鍵を持っている限り「運命の人(鍵の君)を探す女」というロマンティックな境遇でいられる。だから運命の人と逢うためなら海を渡って満州だって行くし、自ら刀を持ち命を懸けて救いにも行く。
そういう運命的な出逢いに憧れる自分へ自己陶酔していることは死に際の「だって私、あの人を追いかけている私が好きなんだもの」というセリフへとつながる。つまり鍵の君と出逢えるかどうかということよりも過程の方が大事だったと、身も蓋もない話しが最期に暴露されるわけだ。

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千代子は「鍵の君」の描いていた絵も故郷の場所も名前も知らない。つまりすべて想像で補完することになるのだが、これは情報が無いのだから千代子からしたら妄想を膨ますしかない。そうして妄想はいつまでも現実化されないままに美化されいくし本人もそれで良いと無意識に納得している部分もある。これは周囲からしたら「運命の人と逢えない可哀相な女」を演じているとも言える。つまり、千代子自身が"恋に恋する気持ち"を大人になっても持ち続けられるということで、千代子の女優としての才能とも言えるし、根っからの役者なんだとも言える。

「鍵の君」は傷の男によって、とっくに亡き者になっているのだが千代子が知ることは無い。そのため千代子はますます深みに嵌るわけだが、鍵を持ち続ける限りは「運命の人と逢えない可哀相な女」の演技をしなければならないというルールを自らに課してしまったのだと思う。
なので、鍵を無くした(正確には夫となる大滝 諄一によって隠された)からには演技をする必要が無くなり、大滝 諄一と結婚することになったのだ。しかし、監督の部屋から再び鍵を見つけてしまった千代子は再度、演技をする必要が出てきたので女優として復活することになったということなのだと思う。

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宇宙船のシーンの地震をきっかけに演技をやめた理由

地震の後、千代子が宇宙服のヘルメットへ写りこむ自分の顔を見るとそこには自分へ呪いをかけた老婆の姿が映っていた。つまり、その時に呪いをかけた老婆が老いた自分自身のことだったと気付いてしまった。(呪いとはつまり、恋に恋して一生を終えるということだろう)
ヘルメットへ映り込んだ自分の顔には若さや美貌でもなくなってしまっている。これでは鍵の君に出逢えたとしても自分のことに気付いてはもらえない。つまり鍵を持っていたとしても演技をする必要が無くなってしまったので、鍵を手にすることなくその場を逃げ出したのだ。

立花から「なぜ突然に姿を隠されたんです」と聞かれて(柱の年輪のカットが挟み込まれた後)
若かりし頃の自分の肖像画を見ながら千代子は語る

「もう、二度と見ることも無いと思ってた...」
「どこまでも会いに行こうって決めたの」
「あの事故の時、私気が付いた。私はもうあの人が覚えている私の姿なんかじゃないって。
 あの人には老いた姿を見られるのは嫌だった」

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そのあと、絵の額のガラス面へ呪いをかけた老婆が写りこむが、ほくろの位置が千代子と左右逆なのは、老婆が千代子自身の写し鏡という意味なのだろう。
立花とのインタビューの冒頭、鍵を渡されたことによって千代子は再度演技をする必要があった。役者には観客が必要なので、立花とカメラマンも一緒になって過去を振り返ることになったということなのだと思う。

以下は、千代子の最期のセリフだ。

「悲しくしないで。だって、私またあの人を追いかけていくんですもの。
 ほら、鍵もここにある。アナタのおかげね。この鍵はあの人の思い出を開けてくれた」
 アナタにお話しを聞いてももらっていいるうちに、あの頃の私がよみがえってきたみたいだった。

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千代子のプライベートはほとんど語られることはない

千代子が母親と一緒に登場するシーンと結婚を促されるシーンなどは現実世界っぽいが、この母親ですら役者であり映画の中のワンシーンではないという保証はない。(立花とカメラマンもその場にいるから)
戦国時代~宇宙へ移り住む時代まで、フィクションなので可能なことだが、それこそ千年くらい長い年月の経過を千代子は女優として演じている。
人は家で家族と一緒にいる自分、会社や学校にいる時の自分、友達といる時の自分など、いくつもの自分を演じ、使い分けて生きている。どれかが本当の自分なのではなくすべて自分であり、ただ使い分けているだけだ。千代子の場合、たまたま演じる才能(思い込みによる自己防衛とも言える)が特化しており、プライベートとの切り分けすらないほどの女優だったのかもしれない。

音楽は平沢進が担当しており、過去を遡る懐かしい感じや、千代子の切なさや、未来へと向かうポジティブな気持ちが個性的なシンセサウンドでうまく表現されている。作品の映像とも合っているしサントラとして聴くにも気に入っている。

千年女優_チラシ


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