見出し画像

星の時(感想)_知らないことへの憐れみと、知らないからこその幸せ

『星の時』は河出書房新社社から2021年に日本語訳が刊行されたクラリッセ・リスペクトルの小説で訳者は福嶋伸洋。この小説は1977年に刊行されており、著者の遺作となっている。
あまり恵まれていない環境にある少女と、その物語を綴る作家の言葉が挿し込まれて語られる小説となっていて、主人公の少女の幸せについて考えさせられて、冷たく静かなアンビエント・ミュージックを聴いているかのような寂寥感を感じられる小説だった。
以下、ネタバレを含む感想などを。

誰からも見向きされない少女

小説の主人公となる少女は、リオデジャネイロに住む地方出身者で、貧しいゆえにコーラとホットドッグばかりを食べて過ごし、タイプライターを生業にしている。その少女の物語はロドリーゴ・S・M(ぼく)によって執筆されているという建て付けで進行し、ぼくによるためらいがちな言葉が序盤や、ところどころに挿し込まれている。

少女の名前は物語が進行してもなかなか説明されず、最初は北東部の女(ノルデスチーナ)とだけ呼ばれ、彼女が唯一付き合う男との出会いの場面でやっとマカーベアという名前が分かる。

マカーベアは二歳の時に両親を亡くし、育ててくれた叔母には可愛がってもらえなかった。リオへ移住するも魅力に乏しいマカーベアへ世間の人々からの関心は薄く、マカーベアと社会との繋がりは、会社の上司と同僚のグローリアとルームメイトくらいと少ない。

彼女には輝かしいものは何もなかった。ただ顔の肌には、しみを除けば、オパールのような仄かな輝きがあった。でもそれもどうでもよかった。
通りで彼女に目を向ける人なんていなかったし、彼女は誰も手を出さない冷めたコーヒーみたいなものだった。

ただの一人だけ、お付き合いすることになる男、オリンピコと出会えたと思ったら、この男には放言癖がありマカーベアを見下すような態度を取る魅力の薄い男だった。しかしそれでも、社会との繋がりの薄いマカーベアにとってはオリンピコと過ごす時間は充分に楽しい時間だった。

マカーベアの置かれている境遇は、まっとうな生活をしている人からしたらとても恵まれているといえない人生だが、ものを知らないマカーベアは生きていられるだけで満足で、自分が不幸だとすら感じていない。
そんなマカーベアは同僚のグローリアに紹介された占い師の言葉によって、はじめて人生に希望を持つことになるも、直後に車に轢かれてしまう哀しい物語となっている。

ものを知らないがゆえの幸せ

誰からも見向きもされないような境遇だが、本人はそのことに気付いてすらいないマカーベアのような人生を、不幸だと言い切ることが出来るのか。
つまり、占い師の言葉を訊かずに、無知なままの彼女でいたならば、それで良かったのかもしれないという思いもある。

少し横道に逸れる。
現代では様々なメディアから発信される情報量が膨大で、とてもひとりの人間では消化仕切れない程の情報が溢れている。しかも本当に役立つような情報はごく僅かだ。

そんな膨大な情報の中、知らない方が幸せに生きられると思う情報で溢れるメディアとして挙げられるのがfacebookやInstagramなど、個人のSNSアカウントから発信される投稿が顕著だ。
誰かの幸せの上澄み部分だけが切り取られた投稿が、タイムラインに流れてくると、素直に羨ましいというより嫉妬心が芽生えるし、いざ自分が投稿する側になったら承認欲求のせいで心が苦しくなったりもする。

そもそも幸せは、他の誰かまたは過去の自分と比較しないと実感しづらい。だから誰かのSNS投稿と自分の境遇を比較をせず、ほどほどで満足して生きられたらどんなに気持ちが楽だろう。
なぜなら幸せはほどほどで満足しづらいように出来ているし、どこまで行ったらマカーベアが幸せになるというゴールが具体的に見えない。
またもしも、マカーベアが不幸だと断定するならば、それは読者の幸福のものさしと比較して不幸だということで、価値観の押し付けにもなりかねない。

物語の構造について

物語の構造が、作家ロドリーゴ・S・M(ぼく)の綴るマカーベアの物語となっているが、なぜこのようにしたのかも考えてみる。

冒頭部分やマカーベアの物語のところどころに、ぼくによる自問自答が挿入され、物語が創作だということが印象付けられているが、創作だからと切り捨てられない著者自身の経験も含まれていると思われる。
マカーベアの日常生活にリアリティを持たせ、物語を不幸なままに終わらせることへ、自問自答してためらうぼくの言葉こそが、読者に共感をもたらすものになっていると思う。

自分が恵まれていないことや搾取されていることにすら気付かず、いてもいなくても構わないと思われているような人間がたくさんいることへ気付いて欲しいという思いと、ものを知らないことが本人に不幸とは言い切れないという、複雑な感情や矛盾も著者の伝えたいことなのではと考えた。
だから、わざわざロドリーゴ・S・Mなる人物に語らせたのだと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?