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ショー・ミー・ラヴ(感想)_瑞々しい感性と、目を逸らしたくなる痛々しい恋愛

『ショー・ミー・ラヴ』は2000年日本公開のスウェーデン映画で、監督・脚本はルーカス・ムーディソン。
田舎町を舞台にしたものすごく地味な作品で、鑑賞後にはじんわりと幸せを感じさせる映画。
しかし同時に観る側の思い出したく無い過去をえぐり出す、胃液の込み上げてきそうな居心地の悪さも残す。
当時の予告編動画では『本国スウェーデンで「タイタニック」を凌ぐ大ヒット!!』とあったが、タイタニックに心底満足した人でこの映画にも満足する人は少なくないか? と思うほどジャンルが違うからひどい煽り文句だったと思うけど、それは御愛嬌。
以下、ネタバレを含む感想などを。

田舎町に住まう少女たち

物語の中心はスウェーデンにある小さな街オーモルに住まう14歳の少女、アグネスとエリンのラブストーリー。
アグネスは気の強さを持っているけど、大人しい性格でオーモルへ引っ越してきて1年半経つも、自分の誕生パーティーへ呼べる友人は車椅子に乗る障害者のヴィクトリアだけ。

そうして同性愛者で密かにクラスメイトのエリンを想っていてしょっちゅう目で追いかけるも、話しかけることはしない。
エリンの姉に「彼女レズよ」というセリフがあったから、ひょっとしたら校内に同性愛者であるという噂はそれなりに広まっているのかもしれない。

地味なアグネスに対してエリンは美人でクラスの人気者。田舎町で平凡な一生を終えたくないから、いつか有名人になりたいと願って刺激に飢えている。

感情表現が豊かで、気に食わないことがあると姉の頭へココアをぶっかけたり、家の鏡を壊したりと衝動的に行動するところがある。
ハイになろうとして家の常備薬を飲もうと試みる様子からも、考えるよりもまず行動というエリンの性格が伝わってくる。

対照的な二人の関係性が大きく変わるのは、アグネスの誕生日となる日で、あまりにも色んなことが起き過ぎて、かつそれらが理不尽で自分勝手な行動が目に余る。
それらは若さゆえの過ちと言ってしまえばそれまでだけども、私個人にとって遠からず身に覚えがありそうな言動や行動の数々であるためか、思わず目を背けたくなるものだった。

自殺したくなる誕生パーティー

母親は良かれと思って大勢が来ても問題ないようにローストビーフを用意してくれるも、ベジタリアンだし誕生パーティへ誘える友人がひとりしかいないため、その優しさがかえってアグネスの感情を逆撫でする。

さらに料理が用意されて家族が待っていると幼い弟から「お腹がすいた」と不満げに言われるのだが、友人の少ないアグネスが責められているような気になっていたたまれない。

アグネスはスクールカーストの底辺にいることを自覚しており、車椅子のハンデを持ったヴィクトリアもきっと似たようなカーストの位置づけだろう。
つまり、ヴィクトリアの来訪は「アグネスはクラスに馴染んでいるはず」という両親の期待を裏切っていることが家族にも露呈してしまうことでもある。
だからわざわざ来てくれたヴィクトリアに対して八つ当たりをしたのだと思う。

身体的なハンデにも言及したヴィクトリアへの罵倒は明らかに言い過ぎで、観ていていたたまれない気持ちになるのだが、ヴィクトリアをディスるのにバックストリート・ボーイズを引用して音楽の趣味がダサいと貶めるのには不謹慎だが笑ってしまった。

アグネスの部屋にはモリッシーのポスターが貼ってあるくらいだから、大衆に迎合するようなバックストリート・ボーイズのような音楽を本当に許せないのだろう。気持ちは痛いほど分かるが聴いている音楽の趣味で優劣をつけるあたりが音楽オタクのしょうもなさと被って苦笑するしかない。

ヴィクトリアの帰宅後、アグネスは機嫌を直して家族とのテーブルにつくアグネスだったが、そこへエリンが姉とやってくる。

しかも、他人の部屋に鍵をかけて籠もって出されたワインを呷り、アグネスが同性愛者だと知ると金を賭けて強引にキスをしてくるという傍若無人。ダメ押しとばかりにクラスメイトから同性愛を揶揄する電話がかかってきて、アグネスはリストカットするほど落ち込むが、さもありなん。

エリンの家庭がシングルマザーであるがゆえにエリンと姉が外で好き放題やるのを止められず、アグネスの家庭は4人家族で幸福そうなのに死にたいほどの悩みがあるというのがなんとも皮肉。

クラス内のポジションよりも、アグネスとの関係を選択したエリン

やがて、エリンは年上の彼氏をつくって寝るも、心の内ではアグネスのことを忘れられず徐々に自身の違和感を抱えた気持ちに気付く。

このエリンによる感情の揺れ具合であったり、アグネスがエリンにされた仕打ちに対して憎いのと同時に愛しく思う複雑な気持ち、それぞれが自身の感情の徐々に変化していく過程の描写がよく出来ているのはこの映画の本当に素晴らしいところ。

人の気持ちはその時の気分や周囲の環境によってブレることはよくあるし、まして閉鎖的で濃密人間関係のな田舎町で育ち、異性を愛することが正しいと刷り込まれていたら、同性愛を貫くのは困難だろう。

友人たちに見つかり、籠もっていたトイレの個室から決心して二人で出ていくシーン。スクールカースト上位にいるエリンにはまだアグネスひとりを悪者にできる選択肢もあったのではと思う。(そんなことしたら二度とアグネスから信用を得られないだろうが)

それでもアグネスと手を繋いで堂々と登場したのは、エリンがクラスメイトたちとの関係よりもアグネスたった一人との関係を優先させたからこそで、その決断は清々しい。

最後のシーンで、エリンはココアの配分がいつもうまく行かないからミルクを継ぎ足して何杯も飲むと語る。
二人は様々な過ちを経て仲良くなったわけだが、まだ14歳と若い二人だからこの先もずっと一緒という保証は無い。
しかし配分の難しいココアのように「間違えたのならばやり直せば良い」というこの映画のテーマを象徴するポジティブな終え方だった。

既視感のある居心地の悪さ

多くのことが起きるアグネスの誕生日以外にも、感情を揺さぶられるシーンがいくつもあったので列記しておく。
父親から、今は辛くともいずれ良いことがあると慰められたアグネスが、「25年先ではなく今幸せになりたい」という言葉には切実な”今”の悩みが伝わってくる。
なにしろ若いときの一日の長さは、齢を重ねてからの一日とはその価値や過ごす時間の体感や価値が全然異なるということを思い出させるから。

アグネスから酷いことを言われたヴィクトリアが、仕返しとばかりにアグネスが同性愛者であることを周囲と一緒になって蔑むところなどは、日常的に学校や会社で起きている自分よりも弱い存在を虐げてしまう集団の暴力性を思い起こさせる。

ある意味、ヴィクトリア自身が受けてきた理不尽なことのはけ口としてアグネスが利用されている面もあることが想像され、不幸が連鎖しているからこそ痛々しい。

さらにマルカスが女性全般を蔑む発言をするのに対し発言を求められて「分からない」と繰り返すヨハンには、虐げられる側への想像力の不足を感じさせるが、ヨハンがいわゆる無害な”いい人”に見えるところがキモ。
他人の痛みに鈍感過ぎたら身近な人すら救えないのだ。


私はかつてこの映画をBunkamuraシネマで観ており、地味な映画のわりには記憶に残っていた。
久しぶりに観直してみると、心の奥底をグサグサ刺してくる描写が多かったり、場面転換の際にカメラがズームするのがダサかったりと、個性的な作品だからと思われる。
そうして、若さ故の痛々しい行動と瑞々しさの同居するところが志村貴子の漫画を読む感覚に近しいものがあって印象深い。


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