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20センチュリー・ウーマン(感想)_言わなくて良いことまで口に出してしまう疑似家族

『20センチュリー・ウーマン』は2017年日本公開のアメリカ映画で、監督/脚本はマイク・ミルズ。
母親と同居人たちとのコミュニケーションによって17歳の少年が成長する物語を、西海岸特有の大らかな空気でパッケージングしたような映画。
以下、ネタバレを含む感想などを。

強気な性格の母と思春期の息子

1979年のカリフォルニア州サンタバーバラ。55歳のドロシア(アネット・ベニング )はシングルマザーで抵当流れの広い家を買い取って、15歳の息子ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)と暮らしている。
その家には同居人がおり、写真家のアビー(グレタ・ガーウィグ)とヒッピー崩れの男ウィリアム(ビリー・クラダップ)にそれれぞれ部屋を貸している。
さらに、幼馴染のジュリー(エル・ファニング)は毎晩ジェイミーのベッドに潜り込んでくるもセックスはしない。

ドロシアはまだ幼いジェイミーの銀行口座をつくる際に「意志も自主性もプライバシーもある」と言い張っていたり、学校をサボるのに親のサインを真似るのを叱るのではなく、むしろその機転を褒める様子から強気な性格とジェイミーをひとりの人間として扱おうとする姿勢が伝わってくる。

しかもかなりの過干渉で、17歳にもなる息子の恋愛や音楽の趣味についていちいち口出ししてくるため、ジェイミーはその態度を少し疎ましく思うようになっている。
そのためドロシアはアビーとジュリーに生き方や興味の対象を見せてやってくれと助けを求めるが、ジェイミーからしたら事前の相談も無く間接的に介入してくる態度すらも気に食わない様子。

仲が悪いわけでは無く、互いを大切な存在と考えているに、まともなコミュニケーションの出来ない思春期の男子とその母親の関係性が何とももどかしい。

様々な問題を抱えた同居人と幼馴染

アビーはアートに憧れてニューヨークで暮らしていたこともあったが、子宮頸がんを理由に地元のサンタバーバラへ帰ってきたものの母親との折り合いが悪くてドロシアの家にやってきた。お勧めの音楽(主にパンク)を教えてくれて一緒に部屋で踊ったりする様子はまるで仲の良い姉弟のよう。
ジェイミーをまっとうなフェミニストにしようと考えており、食事の席で生理でダルいことをきっかけに、皆に教官のような態度でMenstruation(生理)と唱和させるシーンは笑いどころ。

アドバイスがユニークで、女性のオーガニズムについて他の男と喧嘩して帰ってきたジェイミーへのアドバイスは「男は否定されるのが嫌いで幻想を好む」であったり、「セックスする気のない女を隣で眠らせるなんてダメ、自信が奪われちゃう」と的確。

ジュリーは家族との関係性が悪く、家を抜け出して頻繁にジェイミーのもとへやってくる。
14歳でパーティで知り合った男とヤッて以来様々な男と付き合い、ヘビースモーカーでドラッグもやったりと破滅的だが、頭の回転は速くて要領は良いから表面的には誰とでもうまく付き合える。
それでもジェイミーのことは大切に思っていて、家には居場所がなく気心の知れた友人だからこそ本音を打ち明けられる避難所のような存在となっている。だからこそ恋愛関係になるのはあり得ないと考え、それ故にセックスはしない。

ジェイミーはジュリーのことをずっと好きだったから愛の告白をしたのに、「親しすぎてセックスできない」と言われ、だったら「乗り越えよう」と譲歩したのに、今風なフリをしているだけと追い打ちをかけられる。

ジュリーにとっては大切な存在だからこそジェイミーとはヤレない。その気持ちを汲み取ってくれない苛立ちもあって、ジェイミーに対してキツイ言葉になっているのだろうが、ジェイミーは救いようのないほど可哀相。

中年男性の同居人、ウィリアムは女に不自由したことは無いが、女性とはたいてい体の関係のみで終わってしまい、深い関係になれない。手先が器用でDIYや車の修理に長けているが、深く考えず唐突にドロシアへキスしたり、話しの流れを読まずに映画のオチを言ってしまったりと、悪気が無いだけマシだが他者への共感力が低いように思える。

疑似家族のように過ごす5人

同居人と幼馴染を含めたこれらの5人は、本来なら言う必要の無いことまで口に出してしまうことで自らをさらけ出す。それはジェイミーのために発言や行動をしているかのようでいて、自分自身を見つめ直している面もある。
そもそも自分をさらけ出すのは恥ずかしいことだし、やり過ぎると相手から見放されてしまうこともある。しかしそんな欠点ですら互いに受け入れて接してくれるのが優しい。
そうしてジェイミーが行方不明になったと知ると皆で駆けつけ、互いを慈しむ家族のように過ごす彼らのことを羨ましいと感じてしまうのだ。

終盤に親子がどこかの畑で二人きりで話すシーンも美しくて、キャリアウーマンとして失敗を認めようとしない強い母が、「私のようになって欲しくないから」とまで言う率直さに心を打たれるし、ジェイミーから「ぼくは母さんがいれば大丈夫」と言われたドロシーの嬉しそうな表情といったらない。
自分だけでは息子の幸せのために役不足と思ったからアビーとジュリーに助力を仰いだのだが、そんなことは無いと面と向かって否定してくれたのだから、強い女性であろうとして生きてきたドロシアにしたらこんなに嬉しいことはない。

ジェイミーのモノローグによって何でも話してくれる母はこれきりだっと回想されるので、『ボガードに守られる』のではなく『ボガードになりかった』ドロシアのことだから、それ以降はまた強い母に戻ったのだろう。

サントラは公開当時に映画館を出て直ぐにポチったのを記憶している。
Roger Neillによる浮遊感のあるシンセサウンドの「Santa Barbara, 1979」をBGMに、画面いっぱいの上から見下ろした海と町並み。そしてなぜか駐車場で炎上するフォード。それからTalking Heads「Don't Worry About The Government」の、少しとぼけた印象のオープニングがなんとも言えなく好き。

登場人物それぞれの趣味またはテーマ曲といった選曲は、歌は上手いが落ち着きのあるジャズと、演奏は下手だが情熱はあるパンクが対照的に混在しているのも興味深い。
映画の終わり方も素晴らしく、ドロシアの好きだったカサブランカにちなんでRudy Vallee & His Connecticut Yankees「As Time Goes」からの、ジュリーにヤラせてもらえないジェイミーの気持ちを代弁したBuzzcocks「Why Can't I Touch It?」への流れが完璧。映画を観終えた後の余韻が良かった。


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