パリの確率(感想)_SF設定のユルいコントのようなコメディ映画
『パリの確率』は2000年日本公開の映画。監督はセドリック・クラピッシュで主演はロマン・デュリス。
公開当時からお気に入りの映画で、コメディ要素満載だから気楽な気持ちで頭を空っぽにして何度か見返している1本。サントラの選曲も当時の流行りを取り込んでいるから時代を感じさせる懐かしさがある。
以下、ネタバレを含む感想を。
砂に埋れた2070年のパリ
1999年12月31日、パリに暮らす若者アルチュール(ロマン・デュリス)が年越しパーティーへ参加しに友人宅へ行ったところ、恋人のリュシーから子供が欲しいとねだられる。アルチュールはまだ早いと考えているから意見が食い違い、トイレへ取り残されていたところへ天井から砂が落ちてくる。
気になったアルチュールが天井裏に上ってみると、その先はなぜか2070年のパリと繋がっていた。
しかも都市は砂に埋もれていて、車の代わりに馬が人を運んでいたりと未来なのにむしろ文明は退化している。
余談だけど、この砂に埋れた都市は、スター・ウォーズと同じロケ地を使っていたと記憶しており、恐らくエピソードIVでルーク・スカイウォーカーの暮らしていた惑星タトゥイーンと思われる。
アルチュールはその未来のパリで出会った老人アコ(ジャン=ポール・ベルモンド)と出会い、アコがアルチュールの息子で今日中にリュシーと子供をつくるようにお願いされるというSFコメディ。
アルチュールとしては、あわよくば色んな女性とセックスしたいと考える遊びたい盛りの若者だからそんな言葉に耳を貸すはずがなく、総勢20人ほどの子孫たちから説得されるも、初対面の人々に子孫だと言われてもその実感すら湧かない。
子や孫たちに追い回されて「生まれてきたいんだ」という切実な願いを聞いているうちに情が湧いてきたアルチュールは、徐々に真剣に考えるようになるのだが、自分が低収入であったり社会環境を理由に、”いずれ子供はつくるだろうが今ではない”という結論に至る。
だから子孫たちは消えていなくなってしまうのかと思いきや、リュシーの裸を眺めているうちに、結局はその日にセックスをするアルチュールにどんな心境の変化があったのか。
将来への不安よりもアコや子孫たちへの情が勝ったのか、または若死にするなら今のうちにと考えを変えたのか、それともその場の性欲に抗えなかったのか。理由は語られないけども終わりよければすべてよし。
環境問題に配慮しているのかもしれないが、基本はコメディ
主人公のアルチュールは社会不安や環境問題を理由に結婚に踏み切れない若い男となるけれども、そういう真面目な問題は深掘りせずにコメディ要素が強い本作。だいたいトイレの天井裏が未来のパリへ繋がっていることへ、最初のアルチュール以外に誰も疑問を持たないし説明すらされない。
アコ役を年老いたかつての名優ジャン=ポール・ベルモンドが演じているのが驚きだし、そんな老いた名優が若い女に”お母さん”と抱きついて甘える気味の悪さや、パーティーではしゃいでいるのをアルチュールに叱られる様子はまるでコントのよう。
パーティ会場となる家の両親が出掛けに釘を差すように息子たちへ言っていた「物を壊すんじゃないぞ」は前フリでしかなくて、壁を壊されるわ、電子レンジには斧の先っぽが突き刺さるわ、玄関ドアの錠はショットガンで破壊されたりと滅茶苦茶。
家を壊されないように見守る役目のフィリップはドラッグとアルコールでぐだぐだで、招待されていない客で混雑していることにキレ気味の妹クロチルドが音楽を止めて喚くも、なぜかアルチュールから逆に説教され、それで火がついたのかアコが暴れ出して場は混沌としてくる。
パーティーに来ている人たちは騒げれば良いから、音楽が再開すればそんなことはお構い無しに踊り、”21世紀なんだから”と何事もなかったかのようにこの瞬間を楽しもうとするのには笑うしかない。
そうしてリュシーの友人ロズモンドは”父に似ているから”とアコにご執心で、年下好きなナタリーはアルチュールのひ孫ユリスを自宅へ持ち帰る。
パーティが終わるとマチューの相手が実は男だったことが発覚して未来のマチューに子供がいなかった伏線が回収、リュシーの部屋にはジャン=ポール・ベルモンドの代表作『気狂いピエロ』のポスターが貼られていたり。
以上のように情報量をこれでもかと詰め込んだ狂騒は、収まるところへ収束していく終盤には穏やかな多幸感がある。
1999年の冬はどことなくそわそわしていて、それはやっぱりノストラダムスの大予言や2000年問題のせいで、これまで当たり前とされていたものが、そうでは無くなるのでは?という期待や不安の混ざった落ち着きの無さのせいだったと思う。
そういう嘘か真か分からないこともひっくるめて楽しんでいた空気が当時の日本の空気も想起させる作品で好き。
当時の流行りの曲が懐かしい
本作は音楽が作品のクオリティに大きく貢献していて、当時を知る人には懐かしい思いに浸れる。
90年代はサンプラーが安価に手に入れやすくなったおかげで、反復するビートと相性の良いクラブ・ミュージックの過渡期だったと考えていて、過渡期ならではのアイデアに溢れた曲がパッケージされている。
まず、アルチュールがフライパンで卵を炒めるシーンでかかるLMD「The Way You Wanna (Do It)」から頭が悪そう。男の奇声をサンプリングしてぶった切ってリピートするあたりにふざけてるのか!と思うが、ブレイクビーツとバンドネオンの組み合わせもかなり良い。
時間軸を前後させながら流れる映像も相俟って、ただフライパンにバターと卵をのせて食事の準備をするだけなのにとても印象深いイントロになっている。
このLMDというミュージシャンの曲は他にもサントラへ収録されていて、ダブっぽくて気怠い曲が多く、砂に埋もれて退化した世界観には合っている。
パーティのテンションを一気に引き上げるFatboy Slim「The Rockafeller Skank」も取り敢えず頭をからっぽに出来るイケイケチューン。くわえタバコに酒瓶を持ちながら「21世紀だ」と踊るフィリップの楽しそうなこと。
そして一番嬉しかったのはArmand Van Helden「U Don't Know Me」がパーティでかかること。
個人的に、渋谷道玄坂にあったマンハッタンレコード(シスコ・テクノ店の上にあった)で、レコード2枚組のEP『2 Future 4 U』に収録されていたのを購入した思い出深い曲。
焦らすイントロが印象的なハウスアンセムで、丁度その部分が劇中でも流れる。サントラに収録されているのは残念ながらRadio Editの尺が短いものだが、それでも好き。
Otis Redding「I've Been Loving You Too Long」ではまったりと抱き合って踊ったり、アコがテーブルの上で足を揚げながら踊るMartin Circus「Disco Circus」もグルーブ感のある70年代ディスコサウンドのかっこいい曲で、新旧の時代を混ぜた選曲センスも光る。
日が昇りはじめて皆が帰宅し始めるパーティの終わりには、疲れた身体を労ってくれるように優しい雰囲気のHerbert「So Now…」がかかるのも流れとして完璧。(残念ながらこの曲はサントラ未収録だが)
以上のような選曲で年越しパーティ会場は人でごった返しているわけだが、劇中の役だというのを忘れているかのように皆が楽しそう。それは見知らぬ人同士で同じ音楽を大音量で楽しむという快楽を思い起こさせてくれる。
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