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ムーンライズ・キングダム(感想)_駆け落ちする12歳と大人たちの対比

『ムーンライズ・キングダム』は2013年日本公開の映画で、監督はウェス・アンダーソン。
過去作では尊大な父とその家族についてがテーマとなっていたが、本作は12歳の少年少女の青臭い駆け落ち劇。いつものウェス・アンダーソン作品らしいシンメトリーな画面構成と、統一感のある色彩がつくりものっぽさを強調させる。
以下、ネタバレを含む感想などを。

集団に馴染めない少年と少女

舞台は1965年9月5日のニューペンザンス島。長さ26km程度の小さな島に人は住み着いてはいるものの道路が舗装されておらず、海岸線には浅い入り江が入り組んでいて、3日後には嵐が来ると予報されている。

カーキ・スカウト(ボーイスカウトのようなもの)に所属する12歳の少年サムは脱走し、島に住む同い年の女の子スージーを連れて駆け落ちをする。

サムの両親は既に亡くなっており、引き取った里親からは突き放され、カーキ・スカウトの隊員たちからも変人扱いで毛嫌いされている。
スージーも弟や両親との折り合いが悪く、感情的な性格のせいか学校ではキレやすい女子として扱われている。
集団に馴染めない2人はしかし、1年前に教会の劇でたまたま出会って互いに一目惚れして以来文通で関係を深め、かつて島にいたチックチョー族が季節労働で移動した道を辿って、入り江を目指すことになる。

物語の導入がユニークで、中心人物となるサムは冒頭の16分くらい登場せずに、周囲の人々の語りによってサムの人となりが小出しにされ、サムがどのような人間なのかと興味を持たせるつくりになっている。

サムはサバイバルに慣れた感じだが、スージーは目の周囲に濃いめのメイク、丈の短いワンピースで香水までつけている。さらにポータブル・レコードプレイヤーや何冊かの本、ペットの子猫とその餌まで持ってきていた。
舗装されていない道を進むのに不向きな服装や、サバイバルするには実用的ではない物を持ってきたスージーを責めるでもなく、むしろ受け入れて楽しもうとするサムはよっぽどスージのことをが好きなのだろう。

大人びたサムと、幼さの残るスージー

サムとスージーの関係は対等ではなく、サムがスージーをリードをする場面が多い。それは駆け落ちにかける切迫感のせいなのか、サムの思考や行動が大人びているからかもしれない。

スージーはレコードプレイヤーを10日以内に返却すると弟に書き置きをして来ており、服装や所持品から二度と家に帰らないという決意は感じられない。さらにはサムのように「孤児になりたい、物語の主人公みたいに」と、悲劇のヒロインを望む様子は、両親を亡くしたサムの辛さへの理解が追いついていないと思われる。

そんなスージーの幼さは双眼鏡を魔法に例えるのも象徴的で、若さ故の万能感がこもった語りは真剣だ。

なぜ双眼鏡で見るの?
近くに見えるからよ、遠くない物も
私の魔法のつもり

これに対するサムの返答が「詩的だね。誌は韻を踏まなくてもいいんだ、創造的ならね」と意外にも大人びている。

サバイバルに慣れていて、様々な知識でスージーをリードしようとするサム。パイプをふかす様子もどこか背伸びをしているようで、とにかく早く自立した大人になりたいのかもしれない。

スージーは大人になったら何になりたいかを問われ、「一箇所にいないで、冒険の旅に出たいわ」と言い、同じ質問を返されたサムは一瞬ためらうような表情を見せてスージーと同じことを言っていたから、スージーに合わせていただけに思われサムの本音には聞こえない。

2人の逃避行は、大人たちに見つからなかったとしても食糧が尽きたら終わってしまう。一瞬返答をためらった理由を想像するに、大人びた思考をするサムは自分の将来に悲観的だったのではないか。

そもそもサムはカーキ・スカウトを抜けて、その後どうするつもりだったのか。シャープ警部に保護されて「問題になるのは分かってたんだ、それでも駆け落ちしたかった」とも言っているので、2人の逃避行にはいずれ終わりが訪れることを予感していたのではないか。

家族解消の手紙を受け取る以前の脱走だったから、里親の元へ戻るつもりだったのかもしれないが、ひょっとしたら孤児院へ入れられる覚悟もしていたのかも。

いずれにせよ、一目惚れしたスージーと共に行けるとこまで行ってみようと覚悟して入り江を目指したのかもしれない。
しょせんは12歳の逃避行であったため、あっさり発見されてしまうのだが、サムとスージーそれぞれが互いを信頼し必要としている様子は何とも眩しい。

対比される大人たち

互いを必要としている2人が文通で互いの気持ちを高め、地図とコンパスを頼りに1年振りにやっと再会する様子はなんともロマンチックだった。
体は成長過程だけれど性的なことにも興味が出てくる微妙な年齢で、入り江に名前をつけてしまったり、波打ち際でレコードをかけてたどたどしく踊ってキスをする初々しさといったらない。

それまでは仲間外れにしていたのに、反省してサムを助けることにしたカーキ・スカウトの子供たちの行動力も美しい。

対して、サムを引き取っておきながら、家族関係を解消するサムの里親や、不倫をしていた警部とスージーの母。妻の不貞を知りながら見過ごしていたスージーの父。さらには子供の気持ちを考えずに、少年収容所へ連れて行こうとする福祉局の女など、大人たちはしょぼくれている。

大人になると問題や不都合な出来事が起きても、現状の変化を恐れて言いたいことを言えなくなってしまいがちだ。せいぜいスージーの父が酒を煽りながら庭の木を伐ってウサを晴らしていたように、現実の生活から逸脱しない手近なところで折り合いをつけることしか出来なくなってしまう。
そういう意味ではサムが自立しようと足掻いているのは大人へ近づいているとも言え、子供っぽさを捨てることになるのが皮肉だ。

人間はミスや成功体験など、様々な経験をして分別のつく人間になっていく。その過程で個性を抑え込まないと集団に馴染めないことがままある。
そういう個性を大事にしながらも、互いを尊重し合える少年・少女たちによる若さ特有の行動力や純粋さへの憧れを感じさせてくれる映画だった。

ウェス・アンダーソン監督のサントラは過去作も良かったから、映画を視聴する以前にCDで購入した。
映画鑑賞後のサントラとしては、各シーンが思い起こされて素晴らしくまとまりがある。しかしサントラということを抜きにして1枚の音楽アルバムとして聴くと、過去作と比較して少し物足りなさはある。
波打ち際で踊る際にかかるFrançoise Hardy「Le Temps De l'Amour」など聴きどころはあるが、全体的にカントリーやクラシックの印象が強いのが好みに合わなかった。


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