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ゴーストワールド(感想)_自分と世間の折り合いを考える

『ゴーストワールド』は2001年に日本公開のアメリカ映画で、監督はテリー・ツワイゴフ。原作はダニエル・クロウズの漫画で、ブルースミュージックのレコードを収集するシーモアは映画独自のキャラとのこと。
以前は自分の中で、まぁまぁ好きな映画というくらいだったけど、年を経るごとにこの映画に共感することがむしろ増えたように思う。
以下、ネタバレを含む感想を。

皮肉のきいた笑いどころ

1990年代アメリカ郊外の街に住むイーニド(ソーラ・バーチ)とレベッカ(スカーレット・ヨハンソン)は親友で、高校の卒業式を終えると被っていた帽子を地面に捨てて踏みつけ、開放感をこれでもかと表現する。

イーニドはどこにでもいそうな少し太めの体型で、広めのおでこと縁の太い眼鏡が特徴。個性的でバリエーションも豊富な服装はお洒落だから外見から強い個性を感じさせる。
自室は様々な雑貨や服で溢れていて、音楽はわざわざレコードやカセットテープで聴く。シニカルな物言いと上から目線のせいで周囲と馴染めないからレベッカとばかり一緒にいる。
自分が店員で相手が客であってもズケズケと失礼なことを言うほど社会性が低く、どうにも大人になれないこじらせ女子なのだけど「自分にも似たようなようなところが」と思わせる憎めない性格の持ち主。

映画全体に小ネタがいくつも挟み込まれており、その笑いどころがシュールで、ついニヤニヤしながら観てしまう。
薄汚れた人形をバラバラに分解し便器に打ち捨てる理解不能なモノクロ映像を生徒たちへ見せておきながら、美術教師が「私の人間性を表している」とのたまうから意味が分からないし、イーニドがあからさまに不快な表情をしているのも可笑しい。

レンタル店で『フェリーニの8 1/2』を探しに来た客へ、店員が自信満々の表情で似たタイトルのポルノを提示したのには、いわゆる郊外のレンタル店での知識や在庫の乏しさ、さらには街の文化レベルを象徴していると思われる。
間違いを指摘された顔の濃い店員役(パトリック・フィッシュラー)のいかにも分かっていなさそうな表情も秀逸。

世間に馴染めない人たち

ある日、50年代風ダイナーで出会い系広告を見つけたイーニドとレベッカの二人は、イタズラで広告を出していた男を呼び出す。
やってきた男シーモア(スティーブ・ブシェミ)はサエない外見の中年男だったが、マニアックなブルース音楽を収集するレコードオタクだったことからイーニドが興味を持ち始め、シーモアと他の女性の仲を取り持とうとする。

シーモアはブルースミュージックのレアなレコードを収集する趣味がある。
自身の知識に絶対の自信を持っており、得意な分野について聞かれてないことまで語りだすのは、オタク特有の「豊富な知識を持っているのに、誰も俺の話しを聞いてくれない」からで痛々しい。
女性との付き合いに対しては自信無さげだが、プライドを保っていられるのはある意味ブルースに対しての豊富な知識量があるからこそでもある。

そんなだから同じような趣味を持つ人たちとしか馴染めないのだが、車中でイーニドへ漏らした愚痴が印象的だった。

世間の人は満足なんだ
ビッグマックとナイキで
でも、僕は99%なじめない

現実ではこのようなことを口にしようものなら、周囲のせいにしていること自体、つまり個人の努力が足りないと責められるすらある。

しかしメディアから流れてくる情報に対して何の疑問も持たず、自分の頭で考えようとない人が世の中に多数いるのもまた事実で、さらには価値観を他人に押し付けたりマニアックな趣味の人間をイジる人もいる。

「クックス・チキン」という店のロゴの変遷を見せることで、差別が巧妙に隠蔽されてきたことを語るエピソードがある。
見た目を変えたとて、差別が減ったとしても無くなることは無い。むしろ昔よりも差別されていることが分かりづらくなった分、隠された悪意に気付きづらくなったりもする。
そういうのは個人の力でいかんともし難いことだと思うし、じゃあ昔に戻りたいのかというと、以前よりマシになっている面もあるかこそ、それは望まないと言うシーモアの境遇に共感するのだ。

孤立を深めるイーニド

イーニドが歳の離れたサエない中年のシーモアに興味を持ったのは、そのようにして生きるシーモアが、女性たちから見向きもされずに新聞へ出会い系広告を出している境遇に自分と同じようなものを感じ取ったからだろう。

周囲と馴染まずとも自身の信念に従っているという意味では、ヌンチャクを振り回す半裸の男にも近しいものを感じる。
髪型がマレットで、尋ねても無いのになぜか残業時間をアピールするのには、関わってはいけないヤバい人という印象を与えるが、本人は他人からの評価に無頓着というかブレない。
他人からの評価を気にしないというのは、信念を辛くには最適解かもしれないが、それなりのメンタルまたは鈍感力が必要で、これはこれでハードルが高い。

世間に馴染めないと感じるイーニドは、それでも若さゆえの根拠の薄い万能感や自信があるからなんとかやっていたが、父親からは放任され美術の補習では教師から見捨てられた。
さらに親友のレベッカは社会人になることを受けて入れて地元のカフェで働くことにしたから益々孤立してしまう。

だからイーニドがシーモアと寝たのは恋愛感情というより自棄になっていたからと思われ、孤立を深めたイーニドは来るはずの無いバスに乗って街を出ていくことになる。

来るはずの無いバスに乗って終えた意味

行き先不明の廃止された路線へイーニドが乗って終える曖昧なエンディングの解釈については2つの方向があると考えている。
前提としてイーニドのいる街は郊外の小さなところだから、そこに住む人々は閉鎖的で職業の選択肢や将来の可能性が少ない街で、個性的なイーニドにとって息の詰まる場所だからこそ、街から逃げ出したいと考えていた。

そして先にバスに乗って行ったノーマンは高齢だったため、悲観的に捉えるならばバスに乗ったことはお迎えが来たということ、つまりバスに乗ったイーニドも、自死を選択した比喩とも受け取れる。窓から漏れる明かりがイーニドのいる世界と、それ以外を分け隔てているかのようだし、ポツンとひとりベンチに座るイーニドが淋しげでBGMもレクイエムのように暗い。

もうひとつの楽観的な可能性としては、バスに乗ってどこか遠くの大都会へ旅立ったということ。
つまり個性的なイーニドであってもその才能を活かせる、または周囲から浮かないほどの人口の多い都会へ自分の可能性を信じて旅立ったとも考えられる。
ベンチにいたノーマンによる「君は知らないんだよ」が、イーニドがまだこの街の外の世界を知らないという可能性を示唆した言葉だったとも受け取れる。ただこちらの可能性の場合、ノーマンがバスに乗ったことの意味が想像しづらい。

いずれにせよ、路線が廃止されているのにバスがやってきたこと自体が現実的で無いため、バスは街を出ることのなんらかの比喩だったと思われる。
いずれにせよ、20年前の映画なのなのにこの映画を観て感じる孤独や閉塞感が現代ではむしろ加速していると思えるからこそ、心に響く。

普段ブルースなど聴かないため、知らないアーティスト満載だけれども、サントラがまた素敵。
1960年代のインド映画から引用されたというMohammed Rafiによる「Jaan Pehechaan Ho」のカッコよさ。大げさなホーンセクションにのっかるヨレヨレのヴォーカルには勢いがあってアガる。
冒頭の卒業式で女子3人組がラップをする「Graduation Rap」(32秒で終える)も収録されているのには笑ってしまった。


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