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The Dancer


 やがて彼女はダンサーとして、知られることになるのでしょう。


 その日はまだ梅雨明け前のじれったい天気で、私はまだ答えを見つけられてもいませんでした。大雨が私の傘をばつばつと叩いて、できればこのまま全部を投げ出したいと思ったその一日に、私は彼女に会いました。雨の中、彼女は黒いワンピースをひらひらと舞わせながら、往来の激しい通りの真ん中で静かに踊り始めました。初めは何人かの歩く速度が遅くなり、幾つかの傘が嵩張るように停滞しました。その小さな苛立ちを掠め取るように、雨音に混じるように、彼女の踊りは始まったのです。


 人は心が潰れると、上手く生きていけなくなります。それを実感したのはその時よりももう少し前のお話で、記憶に残っている限り初めて、子供たちの前で泣いた時でした。歳を重ねるに連れて自然と大人に成れると思っておりましたが、私はまだ、とても卑怯な女です。

 彼女は長い黒髪を揺らしながら、早くなる雨足をなぞる様に踊りました。どんよりとした曇り空から、太陽は少しも差し込みません。行き交う人は彼女を怪訝な目で見ては、決して足を止めません。世界は誰の為でもないけれど、きっと彼女以外の誰かのために動いている。そういう孤独な雨が相変わらず私の傘をばつばつと叩いて、私の足も冷たい雨に濡れてしまって、けれども私は、彼女の踊りを見続けました。

 閉園が決まったのは園長先生のせいではないし、他の先生のせいでもましてや子供やその保護者のせいでもないと思う。きっと何か漠然とした曇り空のような鬱屈さが、少しずつ世界を狂わせて行ったのだと思います。きっと誰もが悪くなくて、そして誰もがそうやって穏やかに悪人となっていくのかもしれません。閉園の知らせは保護者の方へ伝えられ、くぐもった天気はやがて本降りの孤独となりました。

 彼女の周りに降る雨は、次第に強くなるようでした。傘を差した雑踏は、皆足早にどこかに向かって歩いてゆき、彼女の前で足を止めるのは、なんてちっぽけな私一人。ごめんなさい。なぜか彼女にそう言いたくなってしまう、私はいつも卑怯者。

 せんせい、どうしてあやまるの?

 伊織の言葉は、とても大人びていました。五歳の女の子は晴れやかに、そして勇ましく笑いました。私たちの園が無くなる前に、伊織は次の春に卒園します。あんなに小さな手のひらが、ここよりもっと大きな景色の中に進んでいくことが、私はとても嬉しくて、そして同時に、彼が帰る場所の一つを、失わせてしまうことが苦しくて。

 私にはどうして彼女が踊っているのか、皆目見当もつきません。雨ざらしの彼女の髪が、私の胸の中に深く刻まれるようでした。駅前の往来は更に足早に過ぎていく。無機質な電光掲示板には、大雨警報の四文字が私に烙印を押します。烙印? 何の? 雨音が彼女の踊りを霞めては、私の前から遠のけようとしておりました。それでも彼女は踊り続ける。それでも彼女は踊り続ける。

 伊織ちゃんたちに、会えなくなっちゃうのが寂しくなっちゃったの。

 私がそう言うと、伊織はまたさざめきのように笑いました。太陽のように優しくて、大人のように元気で、伊織はまた笑いました。
 もしも私がもう少し大人で、もう少し勇ましい大人で、子供たちの将来を照らせる大人であったとしたら、

 将来の夢、ダンサーになるの。

 私は違う答えを選べたでしょうか。

 彼女の踊りは段々と激しくなって、長い髪から雨粒が小さく飛び散りました。私の傘は雨を弾いて、けれども私の足元は、雨にじんわりと濡れています。彼女はどうしてこんな天気の日に、こんなにも美しく踊っているのだろうかと思う。その答えはきっと彼女の中にしかなくて、もしかすると彼女の中にもないかもしれなくて、私が彼女に見入ってしまう理由さえも私は具体的に口にすることが出来なくて、それでも彼女は踊り続ける。それでも彼女は踊り続ける。

 伊織は少しずつ、ほんの少しずつ、大人になっていくのです。夢を語る間は誰もが無邪気な子供で居られて、夢に向かって励む姿は誰しもを大人に近づけるのです。伊織の語る夢がいつか、梅雨明けの朝顔のように柔らかく花開けばいいなと願っています。

 もし仮に、この雨が上がったとしたら、それでも彼女はまだ踊り続けているでしょうか。私はまだ傘の下で、彼女の踊りを見つめています。踊りはクライマックスを迎えて、ワンピースが華やかに舞い上がって、きっといつか、伊織が彼女のようなダンサーになったら嬉しいなと思いました。

 斜めに降る雨は傘にも遮られず、私ひとりを濡らします。雨水が私の瞳から、頬を伝って滴りました。彼女はもう少しだけ、生き延びるように踊り続けます。やがて伊織はダンサーとして、知られることとなるのでしょう。やがて私は彼女の姿に、いつか答えを探すのです。


第二回幻杯 特別賞をいただきました。

皆さんのお陰です。

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