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歌舞伎町にて

 二人組の男がこちら側に歩いて来る。一人はネイビーのトレンチコートを羽織った四十歳前後の男で、酔いが回っているのか上機嫌な声で話している。隣のもう一人はもう少し若く見えるが、口元がマフラーに覆われているのでよく分からない。トレンチコートの男の方が会社の上司なのかもしれない。スーツを着ている中年の男が二人並んでいる場合、大抵の場合は会社の同僚の関係性であろう。男たちに居酒屋のキャッチの男が声を掛ける。二十一時を超えるとほとんどの客はすでに少なからず酒を口にしていると思う。ここが歌舞伎町一番街であることも考慮すればもはや当然と言ってもいい。男たちはキャッチの男の話に聞く耳も持たなずに歩く。視線の先にはガールズバーのキャッチとして立たされている何人かの若い女たちに向けられていた。ガールズバーの女のうち背の高いスタイルのいい女が男たちに声を掛けると、男たちは少し上機嫌に言葉を交わした。無視されたキャッチの男は次の相手を探している。キャッチの男は季節に似合わない軽装だ。ガールズバーの女も厚手の上着は着ているものの、ミニスカートから伸びた長い足はデニールの低いタイツにぴったりと覆われている。歌舞伎町で働く人間はいつも寒そうだ。往来する人の群れから視線を外す。スマホの画面を明転させて時間を確認したが、先ほどからまだ五分も経過していない。未華子の勤務が終わるまではまもなくのはずだが、寒空の下では膨大な時間に感じる。私は手に息を吹きかける。その拍子に私の右手に吊された荷物が不規則に揺れた。


 効率的に金を稼ぐには、昼夜を逆転させて働くか性的特性を持ち出すのが一番手っ取り早かったから。若いときに稼いだ金で若さと美しさを追求したくなるのはごく自然なことだと思う、と彼女は話す。未華子と私が出会ったときには既に彼女はその店で働いていたし、彼女の顔には二回メスが入っていた。一度目は鼻筋を少し上に向ける手術で、二回目は目頭の切開らしい。過去の写真と比較して初めて分かる程度の変化には七桁近い金額が掛けられている。確かに若くあり続けることは重要だ。女性であれば尚更に比重を大きくしてそれを求める。


 男たちはガールズバーの女に連れられて建物の中に入っていった。その後ろには他のサラリーマンが何人かの集団で歩いていて、その更に後ろには派手な髪の色をした若い男女が歩いている。歩いている人間を捕まえるのは至難のことであることは、キャッチの男の動きでわかる。多くの人間が自分の向かうべきところを正確に把握しているように思える。未華子は間も無く大学を卒業する。誇れるような学業や人当たりの良い容姿を得るためには、やはり効率的に金を稼ぐ必要があったのかもしれない。歌舞伎町で働く人間にはみなそれぞれどんな将来に向かっているのだろうか。サラリーマンの集団に黒いスーツの男が声を掛ける。キャバクラやガールズバーの従業員のように思われるが、彼にもまた個別の人生がある。ガールズバーのキャッチをしている女たちはみな等しく美しいが、私に判別できないそれぞれの魅力があるのだろう。


 店で働いていた頃の未華子を一度だけ見たことがある。大学の同級生同士何人かで飲みに行った後の悪ふざけだった。誰かが彼女の話を口にしたので――それが悪口であったか肉欲に塗れた言葉だったかは覚えていないが――ほとんど冷やかしのように私たちは彼女の店に向かった。彼女の店は歌舞伎町一番街から路地を一本入ったところに位置していたが、店に入ると多くの人で賑わっているのがすぐに分かった。未華子の働く店は半個室のようなブースで酒を飲みながら、キャストの女の上半身に触れることができる。キャストの女は十五分ごとに入れ替わるが、指名料を追加すれば同じ女と長い時間を過ごすことができる。私の席に未華子が着いたのは間も無く日付が変わるかという折だった。


「卒業したらミャンマーに行きたいんだよね」


 未華子はネイビーのドレスを着ていて、後ろで一つに纏めた髪の毛にはシルバーの飾りが付いていた。口紅が濃く、背伸びしたような妖艶さで微笑む。


「マンダレー地方にバガンの遺跡群があって、そこが上座部仏教の聖地みたいな場所なんだけど、小さい時にそこの写真を見たときに何となく、ここで生きていく自分を想像したんだよね」


 未華子はドレスの胸元をはだけさせた。薄暗い照明に照らされた彼女の小さな乳房が綺麗で、その曲線に沿って彼女の汗が一筋流れている。様々な騒めきに包まれる店内で、彼女の声が上質な湿度を持って私の鼓膜に響いた。私はとうに、もう今夜の全てが満たされたような気分だった。


「なんかさ、どれだけがんばっても、今世には期待できそうにないからさ」


 サラリーマンの集団もまた居酒屋のキャッチを振り払って歩く。ガールズバーの女たちも、キャバクラの従業員も無視して歩く。集団の視界にすら彼らは映っていないのかもしれない。一人一人の顔を追うにはこの街には人が多すぎる。彼女が一晩で相手をする男は何人くらいになるのだろうか。その一人一人の顔を覚えているのだろうか。彼女にとっては私もそういった流転する景色の一部なのかもしれない。


「待たせたねえ」


 未華子は厚手のジャンパーを着て私の頬に触れた。未華子の指先から直に伝わる彼女の熱はまさに真冬という冷たさだ。私は右手の荷物を彼女に手渡すと、早速に彼女はそれを開けた。袋の中から彼女の手よりも一回り大きな手袋が取り出されて、彼女は笑った。


 居酒屋のキャッチの男が新しい客に声を掛ける。二人組の女性が彼の話に立ち止まって、それをガールズバーの女が一瞥した。その景色を除いたほかは、限りない喧騒が続いている。
 

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