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from MonochroMe #000B00 雨と黒

その日の雨は季節外れに冷たくて、風に煽られて斜めにぱつぱつと降っていました。

私のビニール傘が音を立ててその雨を遮っているその数歩前、黒いワンピースを着た一人の女性、傘を差さずに歩いていました。その日の強い雨がきっと彼女の傘を壊してしまったに違いない。そうして彼女はなおも勇ましく、レンガ調の歩道を歩いていました。


私はその人の後ろ姿を、数歩後ろで、ビニール傘を差しながら歩いていました。顔はもちろん見ることはできず、歩く音は雨風に掻き消え、濡れた土の匂いが私と彼女を確実に隔てておりました。濡れた長い黒髪と、水の滴る黒いワンピース。しっかりと歩く彼女の姿を、私はビニール傘を差しながら見ていました。

私はたまに、酷く拗らせた風邪を引きます。

熱が出るか、鼻水が出るか、喉が痛むか、或いはそのいずれかを並行して発症する、そういう風邪をたまに引きます。熱が出ると私ほど健気な人はいないだろうと思いますし、鼻水が出ると自分の馬鹿さ加減に呆れます。そして喉の痛みに、私は死にたくなります。
普段はあまり、風邪を引くことはありません。辛いと思う事よりも、歩き出さなければならないと思う瞬間の方が多いように思います。仕事も日々の生活も、そういう私の慎ましさによって辛うじて上手く回っているように思います。
けれど時折、その緊張がぷつりと切れてしまうように、私は風邪を引くのです。


いつから健康な日にマスクをつけるようになったのだろう。私は喉の痛みをマスクの下に収めて、彼女の後ろを歩きました。それは単に向かう方向が一緒だったからに違いないけれど、濡れた彼女の姿から目が離せなくなりました。彼女の黒いワンピースは濡れてなお、つやつやと鮮やかな色合いをしています。黒は一色ではなく、様々な色を折り合わせた終着点の色だと思う。風になびく彼女のワンピースの黒を微分して、最も近い色を頭の中で探していました。


#000B00  濡羽色


いつから私は健康で、或いは健気でいることを自分に科したのだろうかと漠然と思う。彼女の髪はまだ濡れていて、私のビニール傘は透明なまま、こちらも透明な雫を受けて艶めきました。冷たい雨を浴びた彼女と傘に籠った私が、一定の距離を保ったまま歩き続ける。私の向かうべき場所と、彼女の向かうべき場所は似ているようで違っている。その辿り着く先を知っていれば、私は少しは誰かのために、何かを成せるのだろうかと思う。


雨が強くなるにつれ、街はゆっくりとその色のトーンを落としていきました。分厚い雲の灰色が、街に落ちて染み入るようでした。雨の音がぱつぱつと鳴ると、それは雨の音が大きいのか、幸福から切り離されたこの街の静けさがその音を生み出しているのか、私にはとても分からなくなります。土の香りは私に重くのしかかるけれど、その淀みの中を、黒いワンピースの彼女は勇ましく歩き続けている。私はビニール傘の内側からその後ろ姿を見て、私は何か書かなければならないと思いました。

例えば、詩のようなものを。
例えば、賛歌のようなものを。
例えば、告発状のようなものを。
例えば、エッセイのようなものを。

私の靴の間から、私の足に水が染み入る。傘を差している私も、横殴りの雨の中で、無傷のままではいられません。彼女よりは濡れていないけれど、私も確かに、雨ざらし。

雨の冷たさはいつでも平等だと思っていました。等しく分け与えられた不幸だとも思いました。けれどその日、彼女の黒いワンピースが、私に前を向かせます。淡々と歩く濡羽色に、私は歩き出す力を貰います。


やがて彼女と私は道を違えて、彼女は私の知らない所に向かって歩いていきました。彼女はどこに辿り着くのだろう。答えの無い問いを、問い続けられる私でいたい。


段々と小さくなる後ろ姿。
その濡れた黒い背中が、美しかったことだけを、私はしかと覚えている。



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