見出し画像

言語の消滅

2017.12.21
展覧会が何をやっているか調べる。豊田市美術館でビルディング・ロマンス展。見てみるとスーザン・ヒラーの文字。なんだか聞き覚えがある作家だなと思って調べてみたら、やっぱり恵比寿の写真美術館で作品を見たことのある人だった。

すでに消滅し、今はもはや聞くことのできない言語を録音し、それを日本語訳(というか単語だったと思うけど)だけが映し出された黒いスクリーンを見ながら聞くという内容だった。
すでに消えてしまった言語。映像祭で見たのだが、それがやけに衝撃的で、すごいものを聞いたなと思った記憶がある。
他のは全然覚えてなくて、スーザン・ヒラーのだけ記憶に残っている。当日、その作品を持ち帰りたいくらいだったけど、残念ながらDVDなどは出ていなかった。

いまは英語を話せる日本人も少なくない。日本
語も地域によって全然言葉が違う(方言がある)と思うけど、私のおじいちゃんやおばあちゃんの言葉と、私が話す言葉ももうすでに違う。
おじいちゃんやおばあちゃん世代はより方言が強くて、私は方言がなんだか恥ずかしかった。
名古屋の人からは(名古屋も結構癖は強いと思うけど)岐阜の人は訛ってるね、って言われて少し驚いた、ということも今思い出した。自分では訛ってるつもりなんて全くなかったから。
でもそう言われてなんとなく意識的に標準語に変えていったのかも。大人になって、県外の人からあまり方言が出ないよねって言われるのはそういうことで、いまは全然方言を意識しなくて普通に話している結果が標準語に近くなっている。
そう思うと、割と簡単に言語が消えていくのか……。

この作品が、言葉の消滅を良い悪いと言っているわけではないとは思うけど、一言語が消滅する、ということがすごく大きなこと、ひとつの人種がいなくなるような感じがして、それがすごく強い記憶に残ったのだと思う。
でも、その時の言葉自体は全く覚えていない。消滅した言葉がある、ということを覚えているだけだ。だから私の記憶からその言語自体は消滅してしまっている。(というよりその作品を聞いている一瞬、その言葉が通り過ぎた感じ。)
とはいえ、その作品自体も、もはや最近思い出すこともなかったのだけど、今日スーザン・ヒラーという文字を見てその時の鮮烈な印象を思い出したのだった。
どこかでもう一度聞けたら良いなと思う。その時は言葉の消滅を、どう感じるのかなと思う。

#コラム #日記 #言葉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?