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トンネルを掘った人物が向こうで待ち構えてるトンネルは“罠”である〈日めくり橋本治〉

ただでさえ橋本治を知らない人が多いというのに、さらに時代を遡った昭和の大評論家である小林秀雄を知る人は今となっては少数派だろうと思います。
だから「橋本治の本に『小林秀雄の恵み』という本があってね」なんて言っても大半の人は興味を持ちません。
無理はなかろう、と思うので、ここでは本の内容には触れず、この本で橋本治が書いている言葉を紹介します。

「テキストを『読もう』と思い、『読め』と言われて、それでどんなテキストも読めてしまうほど、人は万能ではない。そこにはなんらかの『解説』がいる。評論は、その壁の内に『解説』が散りばめられた『テキストへのトンネル』である。そのトンネルを抜けて、『テキストへ向かおう』と思うのも自由、『向かう必要もないな』と思うのも自由。トンネルに二つの出口があるわけでもないのに、そのトンネルを抜ける者のありようで、出口はいくつもに分かれる。それが『評論というトンネル』である。」
トンネルを掘って、掘った人物がトンネルの向こうで待ち構えていたら、そのトンネルは『罠』である。トンネルを掘るという作業は、『掘り了えた』という時点で、掘った人物を不要とする

小林秀雄が評論家だったために評論や解説と書かれていますが、「トンネルを掘った人物が向こうで待ち構えているトンネルは罠である」ということは、今を生きる私たちも忘れてはいけない大事なことだと思います。
人間関係でも、宗教も本も、商品や広告やSNSにだって、罠は溢れてる。
橋本治の本で重要なことは、誰よりも橋本治自身が「トンネルを掘って、掘った人物がトンネルの向こうで待ち構えていたら、そのトンネルは『罠』である。トンネルを掘るという作業は、『掘り了えた』という時点で、掘った人物を不要とする」ことに自覚的であった点だと思います。

橋本治は論理の人で、明確で鋭い名言を数多く発していたので、ある時代にはカリスマ的存在になっていました。でも自身が教祖のようになることを徹底的に避けていた人でもありました。
だから橋本治の本は、最終的には読者に自分で考えさせるようにしています。橋本治の本をただ読むだけではダメだと私が思うのは、考えなければ意味がないからです。できれば、自分の体を使ってたくさんのことを経験して、その経験をもとに考えるという体験をしなさい、と促しているのです。
私は本を通じてその橋本治の姿勢を知りました。だから私の記事を読んだ人が、橋本治の本やここで紹介した本を読むかどうかは自由だと思っています。
でも、自分の頭で考えることを諦めないでほしい。当然のことながら、考えることには訓練が必要で、そして長い時間もかかることですから、自分でなにかを考えられるようになるまでには“罠”に引っ掛かることもあります。だから、この世の中には罠があるということ、「自分が今入りかけていることは罠かもしれない」と気づくことは大切なことです。
本なんて読まなくてもいい。橋本治を知らなくてもいい。でも罠があることは知っておいてほしい。そういう気持ちで、この本の言葉を紹介しました。

読んでいただきありがとうございます。

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