想像力の出発点
“正解の座は一つしかない”という状況はもう終わっています。橋本治は昭和が終わったときにそれを実感したといいます。
インターネットがここまで発達して、あらゆる世界と繋がることが可能になれば、国家も宗教も思想も教養も「そういう考え方もある」になります。それは確かに自由だし、正解が一つしかない時代からすれば“理想の達成”でもあるでしょう。
価値観は多様化して「あなたも正解」「私も正解」「正解はない」ことになって、個は乱立する一方で、みんなが孤立する。
価値観の多様化がどんどん進んでいくと、「人の指図は受けない」という主体性が発揮されるように見えて、でもその範囲はいたって狭い趣味的な範囲で、そこを外れると他人任せになってしまいます。「どう考えたらいいのか」という、その後の方向性を問わない知識や情報が氾濫し、「どう考えたらいいのか」を問われない受け手は、主体性を放棄したと言われても仕方のないような存在でもあるのです。
そういう受け手が多数を占める社会で、自分の職業(=物書き)は果たして“いる職業”なのか“いらない職業”なのか?というところに話は進みます。
これが書かれた当時(2001年~2005年)の世界は、アメリカ同時多発テロが起き、イラクに大量破壊兵器があるとしてアメリカがイラクに戦争をしかけて、日本もイラクに自衛隊を派遣していたために、イラクでは日本人が人質になるという事件も起きていました。
この本が書かれてから15年が経って、「もっと言葉の使い方をまともに考えないと、批判がバッシングになって混乱が起こるだけだ」という予言は現実になりつつあります。
SNSを眺めていると特にその想いを強くします。
言葉がいい加減に使われないように、物書きという職業は「いる」。では、本は?
「たった一つの正解がある」幻想は崩壊して、乱立した価値観を持った個は孤立し、自分が関心のない異質な世界観への想像力が欠如する現状は、絶望的なだけなのでしょうか?
この本の終わり方は、もう少し希望があります。
「人が生きている」ことに立脚して、そこからスタートすればいい、と橋本治は書きます。人が生きているところにドラマが生まれる土壌はあって、殺伐とした「ドラマの不毛」はその土壌にクワを入れないだけなのだ、と。
そもそも「人が生きている」ことからスタートする歴史は古事記まで遡ります。
日本の最初の書物である古事記は、「天地創造神話」ですが、そこに「人類創造」はありません。人類は既に存在していることを前提にして、「我々は始める。我々は、我々がもう生活をしていることを前提として、そこで重要なものがなにかを発見する」ということをしています。そして、八百万の神を登場させる。つまり、日本の神話は、神話であるにもかかわらず、明確に現実的なのです。神よりも前に「人が生きている」ことが前提にあるのだから。「日本人は、物を考えるその始めにおいて、かくも具体的に明確だったのか」ということが、橋本治には神々しくて感動的だといいます。安心した、とも。
「人が生きている」ということに立脚して、そこに可能性を見出だす、その結論は優しい。他人に対する想像力の出発点は、その可能性を手放さないことなのではないかと思います。
橋本治は『ぼくたちの近代史』のもとになった講演で、「異質なものは異質なままでおいておく、とするのが一番ロマンチックな愛情」で、「ロマンチックであるということは愛情を成立させるための前段階」と言っています。
異質だから一緒に生きられないのではなく、異質だからこそ相手を想う、それが想像力だと私は解釈しました。
これは『「わからない」という方法』の“わからないからやらない、ではなくわからないからやる”という考え方にも繋がります。
「人が生きている」という立脚点は、『これで古典がよくわかる』の言葉にも通じています。
「古典を読む時に一番必要なことは、『自分も人間、古典を書いたのも人間─だからこそどっかに“接点”はある』と思うことでしょうね。(中略)みんなその時代に生きていた、我々とおんなじ『現代人』なんですよ。」
「小説家でありたい」と書き続けた作家・橋本治の書く小説の登場人物は架空であってもとてもリアルで、そこまでリアリティを追究したのも、「生きている(いた)」ことに立脚するためか、とも考えます。「異質な他人は異質なままでそこにいてもいい、なぜならあなたはそこで生きている。ここにもあなたのように生きている人がいる」と言っているかのようです。
それはまさに『89』という本が書かれた理由でもありました。
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