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パジャマで空を飛べたのに

その頃。この先の未来で出会うことなど全く知らないその頃。存在も名前も顔も知らないその頃。それぞれ違う世界でそれなりに楽しく生きていたその頃。未知の幸せを自覚なく味わってるその頃。

いいなあ、お前は。この孤独も淋しさも、まだしらないんだから。

どうにもならないことをたまに思う。男に生まれたかったとか、もっと背が伸びればよかったのにとか、どうしてもっと早く出会うことができなかったのだろうとか、知らなかった頃に戻りたいとか。

持ちものはどんどん大きく、持てる量はどんどん多く、腕の中は豊かになるものとばかり思っていた。実際は、その分何かを失ってて、増えもしないし減ってもいない。ただ持ちものが替わって、受け入れてる。もしくは気づいていない。

そしていつも、もう持って無い好きだったものとか、まだ持ってない欲しいもののことを考えてる。どこかのタイミングで置いてきた好きだったもののことを忘れる。忘れたことすら忘れる。鈍感でいないと生きていけなくなる。大人になるってゆうか、時間が経つ。人生は転がる。取り返しのつかないスピードで。

今持っているもので満足すればよいのに。まだ持って無いものに焦がれるのをやめて、今持っているものをだいじにすればよいのに。欲しくてたまらないそれは、大したことないかもしれないのに。贅沢だ。欲張りだ。無い物ねだりだ。

側から見れば、死ぬほど馬鹿なんだと思う。でも必死でなにかを育んでる。探してる。見つからないんだもの。

子供の頃、よく空を飛ぶ夢を見た。横になった状態で布団ごと飛んだ時もあったのに、いつからか飛ぶために助走や高いところから飛び降りる描写が必要になった。そのうち、パジャマで飛ぶ夢を見なくなった。空の上は寒いことを知って、薄着で飛ぶ想像ができなくなった。ついに飛ぶ夢そのものを見なくなった。普通に考えて、酸素がほぼない極寒の空を丸腰で飛ぶなんて不可能だ。おそらく、もう二度と見ない。知らなければいつまでも、パジャマで空を飛べたのに。

戻りたいわけじゃないけど。もう忘れてしまったけど。何を忘れてしまったのかも覚えてないので、懐かしいとすらも思わないのだけど。ありえない夢が見たい。夢の中や、夢のような瞬間くらいは、夢みたいに出鱈目でとんちきなものが見たい。つまんないよ、飛行機で飛ぶ夢は。

冒頭に「その頃。」と書いた時から、二晩ほど経っている。なんとなく進まなくなったり、眠くなったりで頓挫した結果。たった二晩で、一昨日知らなかったことを知り、昨日思ってなかったことを思い、遥か昔にお別れした恋人から連絡がきたりするんだから、人生も心も日替わりでどうしようもなくあてにならない。

結婚したんだと教えてくれたので、知ってるよと答えた。奥さんの名前を呼ぶ声がとても良くて、ここまでのいろんな話はどうでもよくて、私たちがかつて恋人だったことなど些細な出来事だと思った。こんな風に誰かに呼ばれるために名前がある。大切な人には、名前を呼んでもらいたい。その声に飽きるまで。飽きたことにも気づかないくらい。

両国で芝居をした時に、散歩中に入ったお店で見た青いコートのことがなぜか忘れられなくて、ずっと考えている。まだあの店にあるのだろうか。この冬が終わるころに、見に行ってみようかな。

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