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心の利き手

久しぶりのユング心理機能に関する記事です。
心の利き手と呼ばれる、生まれつき使いがちな心理機能があり、それが分かると自分に合った生き方を選択しやすくなるそうなので、記憶にある限り時を遡って考えてみようと思います。

私が保育園に通い始めたとき、最初にぶつかった壁が人間関係が上手く築けないということでした。
同年代の幼児の輪に入れない。
しかしもっと問題だったのは、私が輪に入ること自体に興味がないことでした。
そして友達がいないからといって、例えば食事がもらえないなど、実質的なペナルティはありません。
輪に入るのが苦手(その能力が低い)、心の声に耳を傾けても、寂しい、つらいなどの情緒的な問題は感じない、実質的に罰が与えられるわけでもない、の3コンボで私の態度は頑なになりました。

ですから、私が園児たちの輪に入れず、友達が一人もいなくても何の問題もないはずでした。
しかし私は、周囲にそのことを知られるのを異常に恐れていました。
そこで私は、他の園児たちが遊んで飽きて放り出したままの玩具を片付けて回ることにしました。
こうして周囲の子供たちにつかず離れず、分かりやすい目的をもって動き回っているように見せることによって、本当の私の目的、孤立していたいことが、分かりにくくなるだろうと考えたのです。

この方法は上手く行きました。
しかし弱点もありました。
園児がなかなか玩具を手放さなければ、手持無沙汰で一人でいることが目立ちやすくなる、後でまた遊ぶつもりだったものをうっかり拾い上げたら、玩具を奪われたと争いになるかもしれない。
保育園の自由に遊んでいい時間は、私にとって恐怖の時間でした。

本当は、許されるなら、部屋の隅で本を読んだり、積み木を組み立てたり、一人で何かしていたかった。
共用の玩具を独占するのは良くないことなので、自宅から持ち込んでもいいのならそうしたかったのですが、多分認められなかったでしょうし、他の子に奪われるのも嫌だったので、最初から諦めていました。
本当は、本も玩具もなくて良かった、ただ部屋の隅で物思いに耽ったり、周囲の人々を観察したりするだけで、私は満たされたでしょう。
ですが、それは許されないことだと思っていました、無害なはずなのに。

私は一体、何に許されたいと思っていたのでしょう?
最近まで、私は異常に人目を気にしていたのだと考えていました。
いろいろあって、あまり人目を気にしなくなって、ずいぶん生きやすくなったと思っていました。

しかし、よくよく考えると違っていました。
ただ人目を気にしていただけなら、友達作りに必死になってもよかったわけです。

何故そうしなかったのか?
私は恐らく、人目ではなく、人にある行動をさせる、この場合は輪を作らせる背景にある「何か」を気にしていたのだと思います。
その何かから、私の内側にあるほうの何かを守りたかった。
その何かを今になって表現するなら、法則あるいは神と呼ぶのがニュアンスとしては一番しっくりきます。

保育園に通うようになって、自分の好む法則と他の子たちが従っている(ように見える)法則が相容れないものだと思い、立場上自分のほうが少数派というか一人なので弱いと気づいたのでしょう。
真正面から法則vs法則で争うと負ける、でも自分の法則には従いたいので、別の法則に従っていないことがバレないようにしようという理屈です。

だから他の園児が遊んでいた玩具を奪ったと争いが起きるのを異常に恐れたのです。
片づけようとしただけという正当な理由があっても、どちらが悪いかジャッジする法則が相手側のものだと、負けてしまうかもしれないから。
負けたら、私が相手側から見ておかしい法則に従っているのがバレて、無理やり改心させようとしてくるかもしれないから。

自分が当然のように法則に従おうとするので、他の人もそうだろうと、ありもしないものを見つけ出して戦っていたつもりだったのだと思います。
一人でいたいというのは単なる自分のお気持ちだったはずなのですが、それを貫いているだけなら罰する理由にならないので、法則と同等と見なしてもいいはずだと都合よく考えたのでしょう。

今思うと、正面切って戦ってやるぞ=自分の気持ちを素直に言う、というやり方もあったのかもしれないとは思います。
ですが振り返ってみても、昔から私は変わっていないなというか、むしろ生まれつきに近いだけに一番私らしかった時代かもしれず、今戻ってもあれ以上のことをやれた自信はありません。

小学校では、皆と仲良くしましょう、自主性を持ちましょうという、互いに矛盾する法則を突き付けられ、混乱状態になりました。
実際は数人の友人がいれば許容範囲で、自主性と言いながら、どうも特定の目的にとって都合のいい範囲内での自主性とも言い難いような自発性、つまり誰かにとって都合のいい自己犠牲、奉仕精神しか認めていないらしいのを察して、どうしたらいいのか分からないというか、素直に従うのが馬鹿馬鹿しい気もして、ひたすら従っていないことが目立たないように大人しくしようとしていました。

しかし目についたらしく、友達が少なく消極的な態度を注意されることもありました。
ただ記憶にはありませんが、担任教師の評価によると、教室で騒いでいる男子に静かにするように注意する正義感が強いところがあったそうです。
恐らく、教室では静かにするという外部の法則があり、自分もそのほうがいいと思っていたので、珍しく両者が一致し、そのときばかりは自信満々で主張できただけのように思えます。
私がそれが法則だと大真面目に受け取り過ぎていたのだと思います。
教師が元気な子供相手だからとそこまで厳しくしようとしていなかったのを、私が代わりに主張したので正義感が強いように見えただけでしょう。
そのときは建前というものを上手く扱うことが出来ていませんでした。

こうして昔からの特徴を思い出してみると、私の好きな生き方は、自分好みの法則で成り立っている場に身を置くことなんだろうと思います。
法則は見つけ出すのも自分で作るのも好きらしいですね。
前述したように、ないはずのものを見つけた気になって、あると思い込んだり、無理に理屈をつけて法則化するくらいなので。
この辺りは心理機能診断をすると、Ni、Fiも強く出るのと関係がありそうです。

こうしてみると、私の心の利き手は心理機能でいうところのTiらしいので、類型に当て嵌めるとINTPかISTPで、本質的にはINTP的なものを好んでいると見てよさそうです。
ただ、ないはずのもの見ているという点でNiのほうが利き手で、Tiを好んでいるINFJでもあり得そうですが、母の話によると、私が2歳の頃からアダルトチルドレンでいうところの慰め役になっていたそうなので、INFJは年季の入ったペルソナの可能性も高いと思います。
3、4歳以降の記憶しか思い出せないので、本来IxTPかINFJか断定しづらいですね。
現在はFeが弱いのですが、これの使い方から考えてみても、INTPの劣勢機能だから下手だったのか、小学生時代のような碌でもない(ように見える)ことを察してしまうから嫌だったのか決めかねています。
ダークホースとしてINTJもあり得ますが、確率的には低そうですね。

現在、他者視点から見ると、私はT型と気が合いやすいのですが、その中でも特に仲の良い人に言わせると、(F型っぽいのに)やたら話が合いやすいINFPかINFJに見えるそうです。
これは相手の中の基本的な考え方や価値観を、私がそれをその人個人の法則と見なしていて、相性が合っているから安心して感情を出したり、自然と相手を尊重する気持ちが生まれるからだろうと思っているので、自認INTPでも矛盾はありません。

私は機能不全家族育ちで、実家の家族と根本的には合わないなと思いつつもそれなりにやっていけていたのは、全員T型で法則性が読み取りやすかったからかもしれません。
どうも私は気に入った法則性(それがルールでも個人の価値観でも筋が通っているもの)がある場を好んでいる、なおかつ自分自身がP型で柔軟性がある、もしくは相手を絶対視していると合わせたがる傾向があるので、相性が余程いいか、こうしなければ生きていけないと感じると、J型らしからぬ(相手に合わせようという意味での)柔軟性が表れるようです。
この絶対視するというのは、思想・哲学など、人に対してとは限りません。
どちらかというと、盲目的に信奉するというより、自分が絶対視しているものがあるのと同じように、相手にもそれがあるはずで、相手のことが重要であればあるほど、それを尊重したいということなのかもしれません。

こうして自己分析してみると、不遇時代でも結局、やりたいようにしかやれなかったのだなという自分の人生を肯定する見方になれそうです。


追記
この記事の本文を書き終わってからも考え続けた結果、私の心の利き手および生まれつきの類型は、Ti、記憶にないくらいの幼少時のトラウマでSeが極度に抑圧されたISTPではないかと結論づけました。
現在の自認はINTPという思考に引っ張られすぎていたようです。

園児のときの、一人で何かしら作業していたかったが、それも駄目ならせめて考えることだけでも…という思考の流れから、前者の作業していたいのほうがより優先順位が高いはずだと気づきました。
今でも手先を使う趣味をしているときだけは、普段は自分で制御できない何かしら熟考している状態が起こらず、過去を振り返ってみても、もの作りが大好きでした。

今は運動らしきことはしていませんが、子供の頃はソロスポーツなら決して苦手ではありませんでした。
職業適性はISTPに向いているものが一番合っていたと思います。

今のところは、ですが、この追記のほうが自己分析の精度がより高いです。
間違いの例を載せていたほうがより良いと思い、本文はそのままにしておきます。

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