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「学力」問題と教育課程


1.学力とは?


 はじめに学力とは何なのか。私は大きくわけて、「わかる」と「できる」に分けられるのではないかと考える。ここでいう「わかる」とは所謂、意味の理解であって、「できる」とは知識の記憶や操作の正確さなどが挙げられる。現代の日本教育で軽視されている問題点が「わかる」の部分であって、そこが軽視されてしまっている大きな原因の1つが受験である。受験はその生徒の進路や人生に関わる大きな分岐点でもあり、如何にも大切なことであって、学校も塾もそれを理解しているが故に受験に合格する為の勉強に重きを置いている。所謂「受験学力」と言われるものを育てていて、「〇〇高校、〇〇大学に合格!」などといったようにそこだけを広告として打ち出している。受験には正解が必ず存在し、決められた時間内に誰にも相談することも、情報機器で調べることも許されず必要な知識だけを覚えて、筆記用具と紙だけを使って自分1人でその一つの答えを導き出すという特徴がある。すると必然的に「受験学力」はそういった力だけを育てているということになる。「受験学力」はその人の能力という大きな枠組みの中では、ほんの小さな一部分だけなのであって果たしてそれが本当にその生徒の為になるのか疑問に感じる。現代社会で生きていく上で情報機器を使って答えを導き出すことや、他人と相談をし、他者と共存して共に答えを導き出すことは学力には当たらないのだろうか。また、「わかる」の部分が軽視されてしまっていることから、今の子ども達は答えを導き出すことはできるが、そのことに関する本質的な仕組みを理解していない場合が多いのである。

2.「わかる」が軽視される具体的事例と実体験


 ここでジブリ作品の『おもひでぽろぽろ』を例に挙げる。登場人物であるタエ子は分数の割り算に躓いていた。その理由は分数の割り算は、ひっくり返して掛け算にすれば答えが出るという一見単純なものであるのに対し、何故ひっくり返して掛け算にすれば答えが出るのかという仕組みを考えると非常に難しく理解しにくかったからである。この事に関して私も小学生の頃に疑問を感じた事があった。私が小学生の頃、算数に躓いた大きな原因が分数であった。それまでの授業では答えを導き出すこと、所謂「できる」も携わっていたし、仕組みを理解して日常生活の中でも算数の知識を活用することができていた為「わかる」の部分も携わっていた。しかし、分数が授業に入ってきた時から「わかる」の部分が欠落してしまい、最終的には算数嫌いに陥ってしまい、今でも数学が大の苦手科目になってしまっている。しかし、高校生のある時から、どの科目も学習内容の量が多くなり授業内容も複雑化するにつれて、「わかる」の部分を一切考えることなく、ただただ「できる」の部分に拘り続けたら、みるみる内に成績表の評価だけは上昇していったのである。しかし実際はその一時的に覚えた知識は今となっては何の力にもなっていなかったり、事が過ぎると忘れてしまっている。こんな「受験学力」に偏り過ぎた教育を続けていて本当に良いのだろうか自らの体験を踏まえて疑問に感じる。

3.学力問題に関するデータと考察


学力問題に関する2015年の新聞記事では、『全国の高校教員に高校で身につけておくべき学力を尋ねたところ、2004年の調査よりも、「コミュニケーション・スキル」や「受験学力」を挙げる回答が増えた一方で、「他者とともによりよい社会を創っていく力」は大幅低下していることがわかった。』と記されていた。ここでも「受験学力」という言葉が出てきましたが、この結果の1つの要素として、私は教員の立場からすればやはり、自分の生徒にはその生徒自身が志望する進路に進んで欲しいと願う想いから「受験学力」が大切であって身につけておく必要があるという結果が出たのだと考えます。しかし先程にも述べた通り、自らの体験からすると「受験学力」はその場しのぎになってしまっているのではないかとも考えられる。そうであるならば、ここで軽視されつつある「社会を創る資質」の方が長い目で見ると大切になってくるのではないか、また、「社会を創る資質」を伸ばす為の教育には軽視されつつある「わかる」の部分を必然的に重視しなければならないのではないかと考えられる。

4. 「わかる」を重視した授業への展望


では「わかる」を重視した授業にする為には、「なんで?」という切実性を「なるほど!」に変換することが大切なのであって、教室内での集団思考により多面的・多角的な考えに気づかせることであったり、覚えることより気付くこと、思考停止せずに考えることを大切にしていく必要があると考える。また、それを演出する為には教師が「しかけ」を作ることが重要不可欠である。なお、「わかる」が欠落している1つの原因として「学力のモノばなれ」がある。要するに抽象と具体が結びついていないということであって、ただ知識や概念、法則を覚えて「できる」ようになっただけでは本質的な学力がついたとはいえず、それらを現実の生活の中で実感していくことこそが「わかる」に繋がってくるのである。私は過去に1度、子ども達にコンビニの調査をさせて、最後に教師がまとめることによってそれらの抽象と具体を繋げる授業の例を見た。このような授業を毎回するというのは正直不可能に近いとは思うが、こういった授業を少しでも取り入れていくことはこれからの教育において大切になってくるのではないかと考える。何故ならば、AIやITの発達により、「できる」だけではこれから先を生きる力としては不十分であるからだ。

5.終わりに


最後にもし私が教師になった時には上手く授業に「しかけ」を作り「できる」力だけを養う授業ではなく「わかる」力を養う授業をしていきたい。



参考文献
日本経済新聞2015年12月21日朝刊
「高校教員が求める力、「受験学力」重視一段とーーー菊地栄治早稲田大学教授(教育)」

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