【臨床と宗教】 第10回 学びの架橋
マクロで考える死生観
井口:
社会のなかでの「死」のあり方は時代の変遷で少しずつ変わってきています.トニー・ウォルター 1) という死別の社会学をやっている研究者がいて,その人の議論が参考になるのでちょっと紹介しますね.
中世とか近代に入る前は,そもそも医療がそんなに発展していなかったこともあり,死は基本的には宗教の問題として扱われ,医療者はすごく宗教者に近い存在でした.これは「伝統的な死」と言われます.
近代になると科学的価値観がどんどん主流になっていって,死は病院のものになっていきます.「モダンの死」です.
それを踏まえて今をどう捉えるかという問題が出てきます.今を,皆が共通して持っている大きい物語が崩壊して近代が終わったあとの時代,ポストモダンの時代だと捉えるか,近代が形を変えて残っているレイトモダン(後
期近代)だと捉えるか.
ポストモダンの死では,自分らしい死が重視されます.死にゆくプロセスを自分らしく過ごせるように考えること,自分らしい葬儀を生前から計画することなどはそういった死のありようの現れです.一方で,レイトモダンの死では,一見自分らしく選択しているように見えて,実は洗練された形で医療者が管理することが求められたりします.老衰やがん末期の患者さんなどには回復の見込みの乏しい延命処置よりも自然な最期をなどという説明がされることがありますが,これもやんわりとした管理の一例といえるでしょう.
死生観などの話は,ついつい田舎はよかった,昔はよかったというふうになりやすいのですが,もうそういうものではなくなってきており,今はそれぞれの自分らしさを求めていくポストモダンな死と,そうはいってもある程度は管理してほしいというレイトモダンの死のせめぎ合いのなかに私たちはいます.そのなかでどうしていくのか,医療者としてのかかわり方は何だろうというときに,もう少し歴史的な視点も勉強しておいてもいいのではない
かなという感じがします.
孫:
そういう歴史学的な視点も踏まえるとすごく整理がいく感じがしますね.日本人の死生観について先生が書かれた歴史的変遷の論文 2)はものすごく面白かったです.医学生の頃から非常に近視眼的な形でしか僕らは医学や医療を捉えていません.死生観というところでは何千年と連綿と受け継がれてきたものもあって,そこを俯瞰して見ていくのはすごく重要だと思います.
井口:
私も大学院に入ったときは歴史について全然わからなくて,近視眼的なことしか考えられなかったのですけど,大学院の先生にも,歴史はとても大事だといって指導されていくうちに,本当にそうだなと思うようになりました.歴史の大きな潮流のなかに今があるので,ポイントを一部切り取って何か話せるものではありません.医学部で大きくコマを取って教わる科目ではないのかもしれないけれども,とても大事なことではないかと思います.
医師は死生学をどう学ぶべきか
孫:
プライマリ・ケアというところで,最近ACPの問題が結構大きくなっていますけど,先生の論文 2) では國分功一郎氏の『中動態の世界』のことが書かれてあって,それも面白いなと思って見ていました.つまり,死に関する自己決定を能動態ありきで進めてよいのかという視点ですね.プライマリ・ケア,家庭医療や総合診療だと,緩和ケアやスピリチュアルケアも研修の一環として学ぶことが多い印象を受けますが,そこにさらに宗教や死生観,スピリチュアリティ,死生学的な学びを取り入れるために,先生から何かご提案はありますか.
井口:
ぱっと思いつくこととしては,事例ベースでの振り返りですね.事例から話せることはもちろん大切なことがたくさんあり,事例をミクロに多面的に見ることはとても大事だし,とくにプライマリ・ケアだと自分がどんなケアをしているのかをきちっと振り返りをしていくことが,自分を問うという意味では大きな一歩になると思います.
一方で,歴史的な大きなもののなかに位置づけるのも大事だろうと思います.たとえば「無宗教」,あるいは「ご先祖さま」という単語ひとつとっても,そこにはいろいろな意味の連関の中にあるんですよね.そういったもの
はちょっと距離を取らないと,事例だけでは学べないところがあると思います.
そこをどうやっていくかがすごく大事だろうなと思います.専門医とかそういうのとはまたちょっと違う,生きていればずっとずっと長く考えなければいけない問いであると思いますので,生涯学習的な形でやっていくことになるのかなという気はしています.
孫:
緩和ケア領域だと,スピリチュアルペインをどう扱うかみたいな研修を行うかもしれないですが,今回ずっと井口先生と対談していて思ったのは,患者の死に接したときにどう振る舞えばいいかということに戸惑いを感じている医師は結構多く,死生学や宗教を学ぶニーズはたぶんものすごく大きいんじゃないかと思います.しかし,なかなか教育されないというか,学べる場が少ないというのは一貫して感じたので,多くの方が今後学んでいくべきなんだろうと思います.
井口:
私自身もすごく大事なことだと思うので何年も学んできました.もともと振り返りとか,内省とか,そういったことに私たち総合診療医は親和性があるので,決して遠い,全然あり得ない学びではないと思います.私の書いた論文も振り返りから生まれたような感じだと思うんですけど.
孫:
でも,あんな文章はなかなか書けないですよ.
井口:
理論的なところはともかく,事例から感じたことを抽象化して学んで,また次に活かしていくという振り返りは,自分が経験してきた事例がどこかでつながっていることだと思います.ここまでやってきたことを,どう臨床に返していくかは私もまだまだ悩み中というか考え中で,ぜひ孫先生のご意見もいただきたいと思います.
孫:
1つ提案としては,死生学の用語,概念,パーソンズなどの学者の存在もそうですが,そういうのが与えられると,僕らは自分が臨床で感じているのは,医療社会学とか死生学でこういうふうに言われていた概念だったのだ,というように腑に落ちたり,振り返りやすくなったりすると思います.だから死生学者の方を含めた振り返りの機会があるといいのかなと思います3).いま医療人類学の先生たちが結構近いことをやっていますね.
井口:
いま医学教育学会でそういうワーキンググループのようなものがあって社会科学系の人と一緒にやっていることもあり,考えることが多いテーマです.
医師にはとっつきにくい学問
井口:
孫先生は人文社会科学系のことをずっと学び続けていらっしゃると思うのですけど,そのときにご自身が臨床とつながるなと思うところは「概念」ですか.
孫:
概念が与えられなくても,自分で振り返って,ここはこうすればよかったなというのはあるのですが,人類学の先生に,人類学的に見るとこういうふうに説明できるよと言われたときに,非常にしっくりきやすいというか,論
理づけられるという感覚がありました.また違う光のもとに照らされるような感覚があったんです.それは1つすごくいい学びでした.
井口:
なるほど.たとえば社会学だと「感情労働」とか,いろいろ概念があるわけです.そういった概念を医学の思考回路のなかで知ると,引き出しがすごく増えたような気分になるんです.それはとても大切なことだと思うのですが,一方で,私が最近感じているのが,批判すること,されることのなかにあることが,人文社会科学系の学問のなかでとても大事なんじゃないかなということです.
批判といっても罵詈雑言を浴びせることとは違って,生産的な批判です.稚拙でもいいから自分で考えたものを文章に書いてみて,それを研究会などへもっていったときに,いろいろなことを言われます.これだったら,この人のこういう議論の文脈に位置づけたらもっとあなたの言いたいことは言えるのではないかとか,こちらからだけ光を当てているけれども,全然逆方向のこっちは見えていないのではないかとか,そういういろいろなことを言われながら思考を磨き上げていく.さらに投稿した学術雑誌の査読委員の意見も入れながら,言いたいことをよりわかりやすく書いていく.そのプロセス自体,自分の考えは自分一人でつくるものではないというか,いろいろな人に言ってもらいながらつくり上げていけるのだという感覚をもつことはすご
く大事な気がしていています.そして出来上がったものも,また学術コミュニティのなかで違う角度から批判され,さらによくなっていく.どんな概念も単独で不変のものというわけではなく,批判されて磨かれてゆくプロセスのなかにあることが大事だということでもあるんだろうなとも思っています.
科学的な第三者であろうというお医者さんの考えの前提で,診断基準のような感じで社会学などの概念を使うというのはちょっと要注意というか,危うさを感じます.かといって全員がお医者さん的な考え方を捨てるというか,それを書き換えるのは,そんな必要もないし,無理な話だと思うのですが,その辺りはどう思っていますか.
孫:
おっしゃることはよくわかります.人文社会科学系の概念自体が唯一の正解をもたないものだし,医者は理数系的な考えが多いので,引き出しを増やすように概念をただインストールしても,それはちょっと違うのではないか
というのがあります.振り返りなど構成主義的な学びですが,そういった考え方や捉え方という姿勢自体が医師には欠けがちかもしれないですね.
だから知識としてはたしかに増えなくてもいいかもしれないけど,たとえば死をどう捉えるかとか,苦悩というものをどう捉えるかとかいうのは,そのように学んでいったほうがいいというのは 1 つで,その学び方とか,みんなで議論しながら構築していくものではないかというところ自体を学んだほうがいいように思います.
井口:
そうやって他の人と何かを構築していく「姿勢」自体に意味があって,死にゆく患者さんがいろいろなことを言ってきたときに,どう答えるかというところとつながっていくと思います.絶対の回答があるわけではないし,今の自分なりに頑張って言葉を伝えるしかない.それもまた対話のなかで意味が変わっていくし,自分自身も変わっていく.そういう姿勢のようなものがとりわけ死生学や看取りの臨床などの領域ではとても大事だと思っています.ただ,それを教えるというのは簡単なことではないとも思います.
孫:
それが難しさの 1 つかもしれないですね.構成主義的な学び自体が医者は慣れてなくて,答えがほしい疑問ですし,業務で時間に追いまくられていると短時間で答えを頂戴みたいな感じになりやすい.
井口:
そうですよね.こういうことはじっくり時間をかけていかないとできないことだから,そのへんはたしかに難しさにつながっていますね.人文社会科学系のことと医療の架橋ということは言われ続けているし,私も大切だと思っているけれども,すごく難しいことだと改めて思います.
答えのない問いへの向き合い方
孫:
脇道にそれるかもしれないですけど,最近禅問答の本を読んでいたのですが,禅宗の中の曹洞宗のほうはひたすら座禅みたいな感じで,臨済宗のほうは座禅プラス師匠との禅問答を非常に重視するらしいです.禅問答自体がい
ま言ったような答えのない問いを考えて,それを言葉や論理で考えるのではなく,自分の経験などに照らし合わせて非言語的な学びを得ることを重視したものらしく,そこに学べることも結構大きいなと思ったのですが,答えのない問いにぶつかったときのアプローチの仕方ですよね.
いま井口先生が言われていたのは,いろいろな人とディスカッションしたり,批判したりするところでどんどん構築していくというアプローチが 1 つあるし,禅宗のなかでは,師匠から訳のわからない公案という問いを出され,それにただ口先や言葉先だけで答えると怒られるというやりとりを通して学んでいく.そういうのは少し近いなと思ったりしました.
井口:
それはなかなか面白いつながりですね.
孫:
禅問答も,なぜ訳のわからない問題を師匠が出すのかというと,仏陀の教えが言葉や知識では伝達できないからということらしいです.悟りみたいな境地はなかなか言葉で伝達できなかったので,禅問答的なやりとりが考え出
されたらしいです.
井口:
たしかにそうですね.お坊さんの修行も,そういうところにアプローチするための身体的な訓練という側面がありますよね.何かわからないけど考え続ける.目に見える問題になっている間だけ考えて終わりではなく,何か問い続けるところが大事ですね.
孫:
井口先生とはイランでの体験からスピリチュアルケアの方向性や日本人の宗教観を考えることができました.対談の後半では医療者はどのように死生学などを取り込んでいくべきか深く議論することができ非常におもしろかったです.どうもありがとうございました.
参考文献
1) Tony Walter:The revival of death.Routledge,London,1994.
2) 井口真紀子:日本人の死生観とACP.緩和ケア,29(3),204-207.2019.
3) Daisuke Son,Makiko Iguchi,Shin-ichi Taniguchi:Death education for doctors:introducing the perspective of death and life studies into primary care physician training.J Gen Fam Med,22(5),309-310,2021.
(次回は一度休載を挟み、キリスト教牧師である深谷美枝先生との対談をお送りいたします)
※本内容は「治療」2021年11月号に掲載されたものをnote用に編集したものです
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