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【臨床と宗教】 第6回 日本人は無宗教か?

前回まで
第5回まではビハーラ僧として病院勤務された経験があり,臨床宗教師の教育にも携わる森田敬史先生(龍谷大学大学院実践真宗学研究科)との対談で,宗教者が今後医療にかかわっていくうえでのハードルと可能性を探ってきました.
今回からは家庭医でありながら死生学の研究に取り組む井口真紀子先生との対談で,日本人の死生観を医師の目線から深掘りしていきます.

家庭医が死生学を学ぶ


 今回は死生学や宗教のことについて井口真紀子先生と対談を進めていこうと思います.井口先生とはお互い家庭医ということもありますし,もともと親しくさせていただいているので今日はかなりリラックスした気持ちで臨んでいるのですが,深いテーマですので,しっかり対談できればと思っています.よろしくお願いします.

井口
 こちらこそ貴重な機会をありがとうございます.


 井口先生は家庭医でありながら死生学の博士課程に在籍していらっしゃるという,かなり貴重なキャリアを歩まれています.死生学を学ばれるなかでイランの在宅医療やイスラム教におけるスピリチュアルケアについても触れられたということでした.そういった話もちょっと聞ければいいなと思っています.

 まずは井口先生が死生学を学ばれるに至った経緯についてお話いただけますでしょうか.

井口
 はい,私自身が大学院で死生学を学ぼうと思ったのは,最初は「死生学」という言葉に惹かれたからでした.当時はグリーフケアとか,悲嘆とか,人間の深い苦しみといったところに普段の臨床経験から感じることがあって,
もう少し深く学びたいと思っていました.はじめは上智にグリーフケア研究所というのがあったので,そこで勉強していたのですが,そうしたら大学院ができるというので,宗教学っぽい先生が多くて難しいかもしれないけどちょっと行ってみようかなという,軽い気持ちで入ってしまったところがあります.学科名は実践宗教学研究科となっていて,何で宗教学かな,全然わからないなみたいな感じでした.宗教学を私はやるのだというようなすごく強い気持ちで入ったわけではなかったです.たしかそのとき孫先生にも,大学院どうしようなんて相談に乗っていただいたような記憶があります.


 そうでしたね.

井口
 今回の対談に向けていくつか本を読み直したりしていました.日本人は宗教的なものというか,宗教という言葉自体も,NGではないけどちょっとためらいがある.孫先生も前の森田先生との対談の中でも,臨床のなかで宗教という言葉を出していいのか迷いがあるというようなことをおっしゃっていたかと思うのですが,宗教的な感覚は実は人が生きることにすごく大切なことです.ただ日本は歴史的な経緯があり,そういうことを無宗教という言葉の中に押し込めてきているので,私たちはそれを形式上すごく避けて生きているようなところがあります.

 でも,そのなかで,生きる死ぬにかかわる医療の営みはそういうところと結びつきをもたざるを得ないし,不可欠な部分でもあるわけです.そこは,何年か勉強していくうちに何となくわかってきた感覚があります.


 医師自身が死生観を考えざるを得ない現場に立たされているにもかかわらず,私たちはほとんどそれについて教育を受けていません.そういう感情や葛藤を抱いたときにどういうふうに振る舞ったらいいか,患者や家族を前に
どういうふうに発言したり行動したらいいか,どういうふうに自分自身が考えたらいいかがわからないものだなということに改めて思い至りました.自分は家庭医の研修で緩和ケアを現場で学んでいたときに,そういった点で結構苦しんだ体験をいくつかしてきました.そのときに自分が感じた葛藤というのは,死にゆく人のケアを自分が適切にできなかったのではないかという悔いのようなものだったのですが,今でも何回も思い出します.私以外にも同じような経験をされて葛藤されている医療従事者の方も多いのではないでしょうか.今回の対談がそういう方々のヒントになればなと思います.

日本人の死生観


 先生がたとえば現場で宗教のことや死生観を活かして実践されていることなどはありますか?

井口
 話の前提条件を先にちょっと共有できればと思います.阿満利麿先生の『日本人はなぜ無宗教なのか』という本を久しぶりに取り出して読んでいたのですが,この本ではまず宗教というものを大きく二つに分けて考えています.いわゆる何とか教,何とか派,具体的にはキリスト教とかイスラム教とか,仏教でも何宗とか,そういったものを創唱宗教と阿満先生は言っていて,それから自然宗教というものがあります.

 自然宗教というのは日本人が元々もっていた古来からある死生観みたいなものとつながりがあります.私が以前書いた「日本人の死生観とACP」という論文でも触れた,折口信夫であったり,柳田国男であったり,そういった
基層的な信仰も自然宗教の枠組みとしてとらえることができます.先祖代々の家があって,人が死んだら小さいカミになっていずれご先祖さまになっていくような,八百万とも言われるような感覚です.


 井口先生から事前に送ってもらった論文を一通り見せていただいて,とくに『日本人の死生観とACP』はすごいですね.古来からの日本の死生観を総ざらいして現代まで語っていてすごく面白かったです.とくに折口信夫の
「まれびと」という概念があって,僕は最近まで知らなかったのですが,大澤真幸さんという社会学者が『三島由紀夫ふたつの謎』という本を書いているのですけど,三島由紀夫の『豊饒の海』という死ぬ前に最後に書いた長編の小説があり,その解説の中で「まれびと」が出てきました.

井口
 ありがとうございます.あの論文では基盤信仰として折口信夫と柳田國男の議論を提示しました.折口の「まれびと」は外の世界である海から「稀に」やってきて,里に新しい生命力をもたらして再び海に戻っていく神のイ
メージですね.柳田は日本人の死生観は循環的な構造をもっているとして,死者はまず個々の祖霊となり,やがて祖先という集合体に溶け込んでご先祖様となり,先祖は山のなかから子孫を見守り,田畑の生育を助け,そしてやがて同じ血筋に生まれ変わるとしています.ご先祖様というのはある種の神という考えです.


 いずれの考え方も,死者は身近な他界にいて時々この世にやってくるというものでしたね.

井口
 そういうことですね.日本人は無宗教ですとよく言われますよね.「私は創唱宗教の信者ではありません」ということを指して無宗教ですというし,宗教嫌いとかもよく言われます.でも,そういうものではないということを言っているわけです.

 たとえばお盆に実家に帰ったり,お墓参りに行ったり,あるいは地域によっては家を作るときとかに地鎮祭をやったり,そういうご先祖さまと交流するような行事はみなさん経験しているのではないでしょうか.こういう,習俗として扱われてきたことは,もともと宗教性をもったものに由来しています.なので,実は結構身近なところ,私たちがいわゆる「宗教」と思っていないようなところにも死者やご先祖さまとの交流という宗教性をもった営みがあるということです.

 日本の宗教観を考えると歴史の流れのなかでは,中世はかなり霊性に近いものが強かったのが,近代になってかなり世俗的なものが強くなってきました.でも,最近震災やいろいろなことをきっかけにまた霊性が盛り返してきている.つまり人々の中で何か霊的なものへの求めがある.今はそういう時代かなと思っています.それを前提条件と考えたうえで,臨床で死に向かう人とかかわるときは,いつであれ自分の宗教観が問われているように感じます.


 今おっしゃったことを少しだけまとめると,基層宗教としての自然宗教,古来より日本人が抱いてきた死生観も宗教であるし,何々教というのは創唱宗教だという意味で言えば,広い意味での宗教は死生観みたいなものも含
まれる.全ての医師が実はそういうところに向かい合わされるのではないかという話ですね.

井口
 そうですね.具体的な答えがないなかで,そういった経験をみんな実はしているわけです.終末期の患者さんにかかわるときは,ご本人もご家族も悩むし,結構私たちも悩みます.長く通っていてすごく関係のできている方だと,ちょっと傷ついたり,いろいろなことがそこで起こってくると思います.そういうことはみんなケアというものさしと宗教性をもってかかわらないといけないのではないでしょうか.もちろんスピリチュアルケアの専門職も大事なのですが,誰にも任せられない部分があって自分たち自身が問われる点もあると思っています.

参考文献
1) 井口真紀子:日本人の死生観とACP.緩和ケア,29(3),204-207.2019.
2) 阿満利麿:日本人はなぜ無宗教なのか.筑摩書房,東京,1996.
3) 大澤真幸:三島由紀夫 ふたつの謎.集英社,東京,2018.

次回へ続く)

※本内容は「治療」2021年7月号に掲載されたものをnote用に編集したものです

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