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【臨床と宗教】 第8回 死者との絆を考える

前回まで
井口先生がイランで体験した医療では,医師は答えを出すことを求められており,イスラム教の教えと医療を両立するためのアドバイスなどもすることが日常となっていました.一方で日本の医療でみられるような,患者さんの話を聞いて解決策を考えることはほとんど行われておらず,それぞれの国の文化が医療にも根強く反映されていることがわかります.今回は日本の看取りにおけるスピリチュアルケアの問題を考えます.

学ぶ機会のないスピリチュアルケア


 井口先生は現在,在宅医療に主にかかわっておられますが,臨床の現場で日本人の宗教観を感じるときはありますか.

井口
 すごく人によってしまうというのがこういった話ですが,患者さんと話をしているときに亡くなったご家族や,もう会えない人,失われた記憶というものがいろいろな形で浮かび上がってきたり,出てきたりすることはありますね.お話を伺っていて,生きていくこと全部がいのちの網の目の中にいるような感じを受ける方はやはりいらっしゃいます.もちろん創唱宗教の信者さんもいらっしゃるし,そこは本当に多様だなと思いますが,死を前にした時期は,ご本人もそうですけど,ご家族も深いレベルでの苦悩をかかえていらっしゃることが多く,そういう中で出される言葉はときに宗教的な,生と死の深いところに触れている言葉のように感じることが結構あります.


 多くの医師は,死にゆく方を看取るときにどうしてもそういう患者や家族の言葉に触れると思います.たとえば魂の存在とか,生まれ変わり,輪廻的な,あるいは来世でもいいですが,そういった言葉が患者から出たときに,医師としてはどう答えればいいかは医学部では一切教わっていないと思います.先生はそういうときにどのように対応していますか? 今の状態に至った経緯であったり,最初からそうだったのかなどをお聞きしたいのですが.

井口
 最初はたぶん変な答えを出そうとしていた気がします.具体的になんと言っていたかはよく覚えていないけれど,天国に行くのかなとか,その場をしのぐための答えというか,口だけで言っている答えだったと思います.

 お医者さんは全部わかっている人であるかのように振る舞うことを期待されたり,求められたりするところもありますよね.だから何か答えなければいけないみたいな気持ちにかられて,それこそイスラム教のお坊さんではないけど,何か言わなければと思っていたし,たぶんろくでもないことを言っていたような気もします.経験の浅かった頃は,この人は死を受け入れてないのかななどということも思ってしまったりしていました.


 そういうときに何をどう答えたらよいかについて,井口先生は研修のときに教わったり,ほかのお医者さんなどと議論したりしたことはありましたか.

井口
 孫先生も研修されていた川崎市立井田病院の宮森正先生から学んだことが大きいです.そのときの印象に残っている患者さんが一人います.その人はものすごく生きていたい人で,治療が不可能となってもまだまだ治療を模索
するような感じの方だったんですよね.当時,経験が浅かったこともあり,何でこの人は死を受け入れないのかなというようなことを何かの拍子でポロッと言ったときがありました.そのときはたぶん私もキューブラー・ロスの5段階を表面的に理解して,受容イコール治療目標のような感じに考えてしまっていたこともあって,そういうことを言ってしまったんだと思います.

 そのとき宮森先生に,「生きるってそういうことじゃないんだよ.そんなきれいなことじゃないんだよね」と言われたんですね.ずっとそれは何となく心に残っていて,そんなきれいなことではない,では何だろうなって思っていました.でも,たしかに生きていれば,自分自身もいろいろな経験,ときにはそんなきれいごとではすまない経験をするわけです.そうなったときに,あ,たしかにきれいなことではないなというのが何となく実感を伴い,
その先生の言葉が何年も何年も経ってようやく腑に落ちてわかってきたようなところがある気がします.

 医療専門職は今まで色々なことに答えを出してきた仕事なので,みんなどう答えたらいいかと思ってしまうし,なにか気のきいたことを言いたくなってしまうと思うのですが,実際,看取りにあたってのかかわりのなかで,これを言ったらいいっていう答えはないのだと思います.

 自分自身も,だんだん臨床経験や人生経験を積んできて,いろいろなことがあったのだと思うんですが,その過程でグリーフケアなどを学んだことも影響して,何を答えるかではないのだな,言葉がたとえ拙くても伝わるときは伝わるし,逆にすごい技巧を凝らしたすばらしい言葉を送ったとしても,そういう気持ちでなく言っていたら全然意味がないのだな,結局,生身の自分が全部伝わっているのだな,と感じるようになりました.そうしたらその場をしのぐ答えは,大事といえば大事だけれども,そこがちょっと変わったからといって何か意味が大きく変わるというものでもないのではないかと思うようになりました.普通みんなそんなきれいにいかないものだよねという,そこに自分の立ち位置をもう一度置き直すことが,その問いに大きく左右されなくなったきっかけのような気がします.

医師としてのトラウマ


 先生も井田病院で研修されていたんですね.井田病院の宮森先生は特別な先生というか,なかなかああいう先生には出会えないと思います.宮森先生を見ていると,先生の姿勢や患者さんへの語り掛け方や表情などが全部こちらの学びになっていて,いま井口先生が言われたような,掛ける言葉の内容ではなくても,そこに佇まいとしていて,その存在で相手を支えてあげる.そういう意味での「いるケア」を宮森先生が教えてくれたように思います.

 私の経験を紹介すると,某病院で研修中にある末期のがんの方がいたのですが,その方はある宗教を信じておられたんです.ベッドサイドに1人で行ったときに,枕元に置いてあったその宗教のお経みたいなのを見て,こ
れ何ですかと聞いてしまった.そのときあまり説明してくれなくて,僕はさらに質問してしまったので気分を悪くされてしまったようで,その方との関係性が少し悪くなってしまいました.その後,僕が訪室すると,あまり話も
されない感じになってしまったんです.

 その雰囲気を僕も感じたのですが,何とか挽回したいと思い,患者さんの手に触れたりして,できることがあったら言ってくださいと言ったら,女性の患者さんだったのですが,「私は男の人に触られるのはあまり好きじゃな
いの」とか言われてしまい,これはもう結構嫌われたなというのがわかった.さらに,上の先生経由で担当を代わってもらいたいと言われ,要は担当を下ろされてしまったんですね.僕はそのときに非常にショックだったのですけど,そのことを上の先生に打ち明けられず,たとえば「ちょっとショックに感じたのですが,自分のどこがいけなかったのですかね」と言って振り返ればよかったのですが,変にプライドが邪魔して,それを周りに言えなかった.

井口
 それはショックですね.


 その後,その方は亡くなられてしまったのですが,自分のなかでは,いま振り返ってみれば,その人のなかの非常にデリケートなところに土足で上がり込んでいったような振る舞いをしたなというのが理解できます.

 その方との経験で僕が強烈に学んだことがあり,1つは宗教観や死生観といった非常にデリケートな部分では,相手の思いをきちんと配慮しながら,慎重に接していかなければいけないということです.もう1つは死の不可逆性です.もう亡くなってしまったので,その方に対して嫌な思いをさせたまま亡くなっていってしまわれたという後悔が強烈に残りました.

 その方が亡くなる前に,和解なり,自分の印象を変えたかったというのもあるのですが,当たり前ながら死は不可逆的な出来事なので,死というのはそういうものだなと思うしかありません.残念ながらその方には適切な接し
方ができないままで終わってしまったのだけど,それを活かして今後は,そうした悔いが残らないようにしなければと,ことあるごとにその方のことを思い出しています.

井口
 研修医時代はみんな何かしらそういったことはありますよね.最初から神みたいな臨床ができる人はそんなにいないと思います.

死者と生者の継続する絆

井口
 大学院のほうで在宅にかかわる医師の死生観に関してインタビュー調査をやっているのですが,いろいろな患者さんの死にかかわるなかですごく悔いが残った経験をしている先生は結構いらっしゃいます.また,ときにはそういう経験が人生や進路を大きく変えるきっかけになったりしています.そういう話を聞いていて感じるのは,患者さんが亡くなってしまったからといって,もういなくなってしまったその人との関係性が全部終わってしまうわけではないんじゃないかということです.あの人だったらどう言うかなとか,もちろん同じ患者さんではないから同じことはできないのだけれども,あの人のときにこうだったから気をつけようとか,そういうことってありませんか.先生の今の話も,先生とその方とのかかわりはその方の担当を外れたとか亡くなられたとかですべて終わってしまったわけではなくて,今もずっと先生に影響を与え続けているという見方もできるのではないかと思います.

 こういう問題はグリーフケアの文脈で論じられてきました.亡くなってしまった人とのつながりを切り離して,忘れていこうというのがフロイト以降の悲嘆のケアの方向性なのですが,デニス・クラスという研究者が,日本人が死者と繋がりながら生きていくあり方を見て,死者と生者の間で「継続する絆」があるということを言っています.

 死とかかわるというのは,私たち医療者側も変化するものだし,ときにはいなくなってしまった人たちも記憶のなかでずっと教え続けてくれていたりするという面もあるのではないでしょうか.私にもそういう患者さんは何人もいらっしゃるし,未熟な対応をした当時の自分に,「ばかばか」と思うようなこともいっぱいありますが,忘れないで振り返っていくことでかかわり続けられるのかなと感じることがあります.


 当時は亡くなってしまわれたという不可逆性が非常に重たくのしかかってきて,取り返しのつかないことをしてしまったという思いが結構あり,医師としての罪悪感みたいなものがありました.ただ,自分の中でその方が生き続けていて,自分の中では徐々にその方に対して,どこが不適切だったかとかいうのがわかってきたので,自分の中でのその方との関係性が変わってきているような感じがあります.それは一種の死生観に近いと言えるかもしれません.家族などが亡くなった後,生きているうちにこれができなかった,だけど死んでしまったから終わり,みたいな罪悪感がでてくると思いますが,徐々に記憶のなかで生きている方との関係性が変わってくるというのと少し近いかもしれません.そういう関係や存在については可逆的といえますね.

次回へ続く)

※本内容は「治療」2021年9月号に掲載されたものをnote用に編集したものです

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