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【臨床と宗教】 第9回 医師として考える 死へのまなざし

前回まで
医師であれば患者の死に立ち会うことは避けられないことである一方,医師にはスピリチュアルケアや死生学を学ぶ機会は設けられていません.患者の死に際して大きな後悔を残すことがあった医師も多いことでしょう.そういったトラウマを糧に自己の臨床スキルを磨いてきた方もいるのではないかと思います.今回は医師が死生学を学ぶことの利点と,現代の死生観の移ろいについて考えます.

多様化する死生観


 患者さんの死生観に寄り添えるようにしていきたいのですが,医師自身がそういうものにどう対処していくのか,これまでまったく教わったり学んだりする機会がなかったけれどもそれでいいのかというところを少し考えていきたいと思います.先生は死生学を専門に学ばれていますが,そういう学びは広くいろいろな医師に学んでもらったほうがいいと思いますか.

井口
 自分の臨床も死生学を学んだことで変わったのはすごく感じています.しかしこういう領域は医療がまさに避けてきたザ・非科学的な領域なので,学ばせようとしても怪しまれやすいですし,バランスがとても難しいと思います.

 人の病とか,老いとか,死とか,そういうどうしようもない苦しみに対する苦悩,人類学ではサファリングなどと言いますが,そういったものがまずあることを知ることが重要だと思います.そしてそれは決して近代科学や合理的な判断だけで何かできることではないということ,要するに世の中には解決しない問題もあるのだということをまず知っておく.医療者って,解決することを求められがちなので,つい原因を探って解決したくなるんですけど,そもそもそういう問題ではない領域もあるということです.

 そして,人はぱっと見によくわからないこともときにするものだ,でもそのときのその人なりにちゃんと理由があり,それは死生観など言葉にしにくい深い価値観も関係しているのだというような感覚をもつことで,かかわりの質が少し変わるのではないかなと思うことはあります.


 仏教などの伝来宗教が来る前の,自然と太陽や川や風などに感じる宗教観というのか,お天道様や自然に手を合わせて感謝するという先生が最初に言われた自然宗教みたいなのは,パソコンでいうOS的に僕らの中に入っていて,何千年も続いている文化として土地に根づいていたり,私たちの行動様式にも影響を与えていたりする死生観ですよね.仏教もたしかに輪廻的な考えはあるけれども,死んだら土地に帰っていくとか,自然に帰っていくかと
いうのを何となく日本人は信じているところがあるからそういう考えも生まれると思うのですが,そういうところを医者は語りたがりませんよね.今おっしゃったように非科学的で,まず医学の対象ではない.

 しかし,そういうことをあえてしっかり語ったり,学んだりすることは非常に大事なことです.柳田國男や折口信夫ぐらいは日本人の医師だったら読んで,自分たちの死生観について学んだほうがいいのではないかと思ったりします.

井口
 古典に触れて学ぶことは本当に大切ですよね.少し補足ですが,たしかに今は宗教的なものへの関心は高まってはいる時代なんですけれども,だからといって基盤信仰みたいなものがいま完全に盛り返しているというわけではないんです.現代日本人の死生観=基盤信仰と言いきれるかというと,そういうわけではない状況です.基盤信仰の前提となるイエ制度も壊れてきていますし.そんななかで,みんながさまざまな形でそういった深いものとのかかわりをいま模索しているのが今の時代の状況かなと思います.

 もちろんいわゆる宗教も重要なのですが,大きな流れが2つあります.まず癒しを志向する動きで,これはたとえば江原啓之さんなどに代表されるような,ポピュラー文化に乗ったスピリチュアルな言説や自己啓発セミナーなどがあります.もう1つ最近出てきた流れとして,痛みや苦しみを抱え,ともに生きていこうという方向性の動きがあります.グリーフケアへの注目もその1つと言えますし,アルコホリクス・アノニマス(alcoholics anonymous:AA)に代表される自助グループ,遺族会などもこの動きのなかにあると言えるでしょう.

 いろいろなものが混沌としている時代の中で,みんなに共通する1個の答えがない.日本人の死生観イコールこれこれです,というものはどこにもないんですね.では基盤信仰に戻ればいいかというと,決してそういうわけではないし,それを支えた社会の構造も変わってきている.それぞれが自分たちなりにつくっていかなければいけない,考えていかなければいけない.

 いま,死生観というのはそういう意味ですごく多様化しています.それぞれが手づくりでつくっていくという面があって,医療者はそのプロセスに職業柄わりとかかわることが多い.その時に,かかわる「かまえ」みたいなものが大事だと思います.患者さんに,自分は医者だからあなたの死生観を一緒に考えてやるという態度ではやっぱり問題がありますよね.かといって,患者さんが答えの出ない問いに自分なりに向き合っているときに医療者が何
も考えていなければそれはそれでつらい.医療者も自分の死生観を考えていないと,人が考えているそばにとどまれません.逆に自分の考えが強すぎて,死んだら絶対天国へ行くから大丈夫とか,何か強いものを押し付けてしまったりしてもまたよくないわけです.自分なりの死生観を考えつつ,それをちょっと脇において謙虚にかかわるということが必要かなと思います.

死生学のすすめ


 そういう意味では,死生学という学問を医師が学ぶというのは非常に中立でいいかなと思います.先生がおっしゃられたように,医師自身の宗教性が強く出てしまうと患者は引いてしまうかもしれないし,偏りの問題などいろいろと難しさが出てくる気がするので,学問としての死生学からそういうスピリチュアリティの問題であったり,実存であったり,生きているということの意味を考えていくとよさそうです.人間だったら誰しもぶつかる問題であって,死を意識した病の人であれば当然ぶつかっているので,全ての医師がスピリチュアリティについての学びをある程度やったほうがいいのかなと思います.

井口
 そうですね,総合診療系の医師の,自己省察を中心とした振り返りは,そういった学びにすごく関係が深くて大きく寄与するのではないかと個人的には思います.


 若い医師たちでも,患者さんの死には日常的に接していると思います.ただ,それが病院という患者さんにとってはアウェイの場で,患者さんが生きてきた文脈がはぎ取られたような,医療者にとってのホームの環境で死を見ているので,死にゆく人のいろいろなものをすくい取れない部分がけっこうあるのではないかと思います.そういった点は死生学を学ぶことで豊かになるのではないでしょうか.

 そのようなスキルは経験とともに変わってくることが多いと思うのですが,人の死に接したときに,死に関する感情や苦悩といったあれこれを引き受けるのは医師として負担が重いと感じる人も多いかもしれません.ですが
そういうところに対する感性が豊かになったほうが,患者の死に接することにやりがいが出て,対処しやすくなってくるという見方もありますよね.その辺についてはどうでしょうか.

井口
 病院で死を見ていることが,患者の文脈をはぎ取ることで成り立ってきた面もありますよね.少し理論的な話になるのですが,タルコット・パーソンズという,医療社会学をつくった社会学者がいます.この人が,病人にも社会的役割があるということを指摘しました 1) .それに呼応して医師にも社会的に要請されている役割がいくつかあります.その中で感情中立性,つまり感情的に中立にかかわること,あるいは限定性,つまりヘルスケアに限定することだけにかかわること,そういうことによって医師のある特権が与えられて認められてきたわけです.それを可能にする装置として病院という非日常的な舞台がつくられています.

 何を言いたいのかというと,生身の人間が,人が亡くなっていくことに付き合うのはすごく重くてきついことで,それは医師であっても一緒です.だからこそ,かかわりを健康問題に限定し,非日常にしないと感情的に中立にやっていけない,というのがもともとあって,それを前提に病院での医療が成り立ってきたということです.

 だけど一方で私たちは専門職として,患者の文脈に少しでも近づこうとしながら死にかかわることを,当然のように引き受けているわけですよね.ここからは私の仮説みたいなものですが,そのなかでどこを頼っていくかというときに,ひとつのあり方として,死者や,もう会えない人たち,失った人たちとの絆であったり,あるいは患者さんとの双方の承認であったり,そういったことからパワーをもらっているというか,そういったつながりの中に自分を置くことで前に進んでいけるというところがあるのかなと思います.

 死を前にした方とかかわるしんどさ,重さに関して目をふさぎ続けたら,もうどんどん文脈をはぎ取っていくしか手はなくなってしまうと思うのですが,そうではなく,そこに飛び込むというか,逆に感性をもっと豊かにして感じ取っていく.そのときには知識はすごく力になるので,そういった意味でも死について考えてみるとか,感じてみるとか,1件1件の死に関して患者さんにも丁寧にかかわっていく.そういうことが支えになっていくのではないかと今は思っています.


 死者との関係性を考えるというのはすごく意味深いですよね.現代社会に対する哲学者たちの批判でも今は生者中心の社会になっていて,死者の権利が忘れられた,死者がぞんざいに扱われがちな社会だという話があって,ジョルジョ・アガンベンという哲学者が「剥き出しの生」という概念を言っています.たとえば,COVID-19が蔓延したヨーロッパにおいて,死者が棺桶にも入れられずに葬られるような現象のことですね 2) .生きていることにみんなフォーカスしているので,死者へのまなざしが希薄になっているということが社会全体としてはあるのかもしれません.そのなかで医者は死者に接する特殊な職業の1つであり,そのなかで死生観,死生学がますます存在意義を増しているなという気がします.

井口
 死者とのかかわりの問題は,民俗学や政治学など人文社会科学のいろいろな領域で語られ始めています.もしかしたら,パンデミックという,不条理な死に社会が覆われる経験を通して,死者とのかかわり方が再編されてゆく可能性もあるかもしれませんね.

臨床宗教師が生まれたからこそ医師がやるべきこと


 前回の森田敬史先生との対談でもあったのですが,東日本大震災の後にスピリチュアリティの問題がまた注目されてきて,臨床宗教師がきちんと位置づけられるようになってきました.そのあたりについて先生はどのように捉えていますか.

井口
 東日本大震災では被災地の人たちはもちろん大きな苦しみを経験することになりましたし,同時に被災地以外のところにいた人たちも集団的なグリーフのなかにいて,みんな少しずつ傷ついていたのではないかと思います.当時,宗教者の方々がすごく力を発揮していて,あのときに儀礼の意味や宗教者の意味など,いろいろなことがもう一回見つめ直された部分もありました.臨床宗教師の方々の育成もかなり進んでいると聞いていて,私も研修を
お手伝いさせてもらったこともあったりして,注目すべき取り組みです.

 ただ,イランの論文の最後のほうにも少し書いたのですが,死生観やスピリチュアルなことは誰にどこで語られるかわからないし,明確な形で語られるかもわからないものです.普段のちょっとしたかかわりのなかでもそういったことは問われていると私は考えています.医療者側が,「あの人,スピリチュアルペインっぽいから臨床宗教師の方にお願いしちゃおう」みたいな分業に陥ってしまうのだとしたら,それはちょっと危ういなと思ってもいます.専門職ができたからこそ,なおさら自分たちも勉強してそういった解決できない問題へのリテラシーを高めないといけないのではないでしょうか.

 専門職のみなさんがより深いところのケアという場面で力を発揮していただけるのはすごくありがたいことです.一方で,今日この場ではスピリチュアルケア専門職がきたのでスピリチュアルなことだけ話します,今日は医師がいるのでバイオメディカルなことだけ話します,というわけにはいかないと思うんですよね.体の症状を話すなかにもスピリチュアルな苦しみや心理的な苦しみが出ていたりすることはたくさんあるので,専門職が育成されているからこそ,われわれがスピリチュアルペインや,死生学や,宗教的なことを自分たちは無宗教だから考えなくていいと別枠に置いて,そこに押し込めて見ないふりをするようなことはしてはいけないのではないかなと思います.


 おっしゃるとおりですね.社会的因子に関してソーシャルワーカーに丸投げして全く考えないというのはあり得ないのと同じですよね.人間の多面的なところを扱うのが医師という職業の特徴でもあって,専門分化しても,人
間に接するというところが基本にあるのだなと思いました.病院中心の医療になったのはたかだかこの200年ぐらいで,その前はコミュニティの中に医師がいたので,もう少し患者の生活の場に近いところで患者と文化を共有
しながら診ていた時代は,もう少しスピリチュアリティなところも医師が自然にみていたのかもしれないですね.

参考文献
1) タルコット・パーソンズ:社会体系論.佐藤勉(訳),青木書店,東京,1974.
2) 大澤真幸,國分功一郎:コロナ時代の哲学.左右社,東京,2020.

次回へ続く)

※本内容は「治療」2021年10月号に掲載されたものをnote用に編集したものです

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