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【臨床と宗教】 第5回 共感でつながる医療と宗教

前回まで
医療のなかで宗教が意識されることはまだまだ少ないかもしれません.しかし,つらい病気や死の経験をするなかでは,それらを乗り越える助けになり得るはずです.マインドフルネスなどは仏教がもとになっていますが,治療への効果が実証されたことで医療界に広まりつつあります.今後,宗教が医療界に認められるためにはそのような目に見える効果を実証していく必要もでてきます.

共感と受容

孫:
 宗教など実証研究がしにくいものの有用性を広めようとするときに最近私が思うのは,文学の可能性です.医療には文学といった芸術的なものが非常に重要だと思っています.なぜかというと,これから医療従事者に必要とされる能力の1つにエンパシー(empathy)というものがあげられます.患者への共感性ですね.共感は相手の心理を想像する認知的能力といえますが,それを伸ばすために私は学生へよい文学作品を読んだほうがいいよと伝えています.文学は科学的あるいは実証研究的に取り扱いにくい主観の世界を非常にリアルにまざまざと描き出す一番いい形です.よい作品は読んだらガーンときますよね.1冊の本を読んだだけで人生が変わる場合もあります.文学は主観だから役に立たないねで終わってしまうかというと,そうではないところがあります.それと同じように宗教学,死生学も医療にとっても重要だということは何らかの形で取り扱えるのではないかと思っています.

森田:
 いま共感というところでおっしゃってくださったエンパシーという言葉は,私もすごく注目しています.私がよく引き合いに出すのは,「所詮他人事」という言葉です.他人ごとを自分のことのように大切に思うというこ
とを,どの域まで達成することができますかといったときにはおそらく限界があると思います.人は自分をかわいがって,自分を守るという習性のもと,いくら家族であってもどこまで自分のことのように命をかけられるか.部分的にはできたとしても,存在をかけてとなるとなかなか難しいでしょう.

 臨床宗教師の文脈で「全存在をかけて」という言葉があります.よくお話ししているのが,対象の方を自分のことのようにしっかり慮ることができるかどうかということです.自分勝手に「宗教者だから」ということでは通用しないのに,「全存在をかけて」を押し通すことと置き換えられてしまう誤解はマズイわけです。まずは宗教者が一方的にそれぞれの教義に基づいて教導することで十分と考え,一国一城の主のように満足するのではなく,その確固たる信念から醸し出される宗教的雰囲気を武器に「宗教者」としての立ち位置を,周囲からしっかりと承認されていることがないと,現場では自分勝手に動いていることにしかならないとお話しをしています.

 もうひとつ踏み込んでいくと,コンパッション(compassion)という言葉があります.共にそこに在って一緒に苦しむ,一緒に耐えるということです.辞書を引くとコンパッションも共感という日本語訳になるかもしれませ
んが,どちらかというと一緒に耐えるというのが語源のようです.そこに共に居て,では何ができるのかとなったとき,苦しむ人のそばでは何もできません.誠に声を大にしては言いにくいところですが,それでも宗教者は踏ん張らないといけない.ドロドロしたところに突っ込んでいくためには,共にそこに居させていただき,一緒にその空間を味わって,そして耐えていく.だから共感をさらに超えていく,わがことのように捉えられるよう,しっかり神経を張りめぐらさないといけないのではないかと思っています.

孫:
 
最近,医療系の論文でもコンパッション,エンパシーはキーワードになっています.看護系の論文が多いのですが,私が読むような医学教育系のコミュニケーションとか,患者さんの心理を考えるようなところの教育をど
うするかみたいなところではエンパシーとコンパッションは結構キーワードになります.私の解釈ではエンパシーよりさらに奥にあるものがコンパッションかなと思っています.

森田:
 
その流れでお話ししたいのは,ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)という概念です.その昔,伝統治療師が繰り出す手法として概念化されたそうですが,まさにできないこと,わからないことに対して,それに耐え得る力を身につけていかなければいけないというものです.私がいま携わっている研修や教育,あるいは研究の中でもそうですが,かなり重要なキーワードになってくるのではないかと思っています.否定的な事態でも,それをしっかりと受け止めていく,耐え忍んでいく,先ほど出たコンパッションの一緒に耐える,苦しむということにもつながります.ネガティブ・ケイパビリティは,文学作品から出てきたところもあります.人とかかわるうえで,先ほど先生がガーンとくるような,まさに感性を揺さぶられるような経験に通じるのかなと思いました.

孫:
 ネガティブ・ケイパビリティと聞いて連想するのが,オープンダイアローグ(open dialogue)というフィンランドの対話の取り組みのなかで原則の1つとなっている「不確実性への耐性」です.当事者の話を聞き,対話をしていくときに「不確かさ」の方を大事にするという考え方で,ネガティブ・ケイパビリティと通じるところがあります.確実性を重視し,リスクを減らすことを目指すような現代の社会において,あいまいで不確実性を常にはらむ人間存在をどう捉えていくかということで注目が増えてきているのではないかと思います.このあたりの部分は宗教の役割も大きいのかもしれません.

 教育もそうした社会の動向を反映していて,能力を確実に伸ばすにはどうしたらよいのかという考えになってきています.そうではなくて,そもそも人間存在や人間の能力というのは不確実なものなのだということを,改めて認識してもよいのではないかと思います.

森田:
 おっしゃるとおりですね.

テクノロジーが進んだ今だからこそ
スピリチュアルケアを

森田:
 昔は,死は医療の敗北だといわれたということをよく耳にしますが,最近はどうなのでしょうか?

孫:
 
大分変わってきています.「キュアからケアの時代へ」とよくいわれています.地域包括ケアの中では単に治癒させるだけではなく,自宅や住み慣れた地域で最期を安らかに迎えるところまで整えていくという方向へ医療全体
が大きく変化しています.単に死を避けることをゴールにするところからQOLやよりよい死をゴールとする方針へ変わってきているところでしょう.

 ただ医療の本質はテクノロジーの進化です.がん医療の進歩はすごいです.ここ10年くらいでもガラッと変わって,最近は新しい治療薬がどんどん出てきて生存率が改善してきています.それ自体はすばらしいことですが,一方でそういったテクノロジーの進歩があるときに,それと一緒に哲学とか死生観といったものも考えていかないとバランスが崩れていくのではないかという危惧も感じています.

森田:
 先生のお話を伺っていると,そういった哲学やスピリチュアルケアの部分を宗教者だけが意識するのでなく,利用される患者さんやご家族にも一層理解していただけるようにしていかなくてはいけないのでしょうね.臨床宗教師などの教育にもものすごく影響してくるのかなと思います.

 医療はテクノロジーがすごく進んできたということで,たとえば病院にかかればあらゆるものが治せるようになってきた,そうすると不老不死の神話をみんなどこかで信じたい,受け入れられないネガティブなところを払拭してくれる窓口を求める心情がより強くなっていくのではないかと思います.それは生きとし生けるものすべての欲の部分かもしれないですよね.元気でありたい,若くありたい,死にたくないという欲の部分は当然もっているものです.

 実際の場面では,利用される方の価値観,考え方を成熟させていけるように,現実を知っていただくために医療や宗教などの幅広い考えを自身の中に取り入れていくことを促していかないといけないのかなと思います.そのあたりが両輪としてうまく回転できるよう,医療者と宗教者はお互いに連携をとっていく形になれればすばらしいことですね.

孫:
 おっしゃるとおりです.宗教者の方と住民の方のいい接点をいろいろつくっていけるといいですね.先に在宅医療はいい接点かもしれないと申し上げましたが,普通に対話できる場が地域にあって,普段から考えていく,お互い学んでいく場所がいろいろあるといいなと思います.

森田:
 たしかにそうですね.だから宗教界の側もそういう形でしっかりと連携をとる,自分たちだけということでなくて,諸分野とつながっていくことが必要ですし,医療界のほうも宗教からも教えられることがあるのだという眼差しで見てくださるといいなと思います.業界全体がそういう形で動いていくことができればよいですね.

孫:
 
ここまで森田先生とお話しさせていただいて大変勉強になりました.ありがとうございました.


次回より家庭医療・在宅医療に従事しながら大学院で死生学を学ばれ,イスラム圏の在宅医療の現場も見学された井口真紀子先生と孫 大輔先生の対談をお届けします.

※本内容は「治療」2021年6月号に掲載されたものをnote用に編集したものです


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