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明治期の女教師(114年前!)も深夜12時過ぎまで残業していた・・・

を読みました。
石川啄木の妻の節子は、高等女学校を卒業したインテリで、小学校の代用教員として二度勤めています。
本書を読むなかで、当時の女教員の労働状況も知ることできました。

石川啄木への旅

上記に盛岡での旅の様子を書きましたが、啄木のこと、それから、妻の節子のことが心から離れなくなるような旅になりました。
二人が教師という、自分と同じ職業に就いたことがある、ということも、彼らのことに想いを馳せてしまう要因になっていました。

明治期の女性

明治、大正、昭和、と女性の立場は本当に弱いものでした。
啄木の妻、節子も、啄木自身やその家族に振り回される一生でした。
節子の場合は、啄木の母がいつもぴったりと傍にいました。
嫁姑の確執は救いがたいものであったのにもかかわらず、いつもいつも狭い部屋には姑が一緒にいたのです。

姑の立場から考えても、気に入らない若い女といつも一緒にいなければならないのは地獄ですが、お金もなく、体も思うままにならない老齢ではどうしようもありません。
姑も息子や夫の都合で振り回された生涯だったのです。

節子が明治41年、二度めに代用教員として函館の小学校で働いたのも、啄木が友人である宮崎郁雨に妻子を託して上京してしまったためです。
郁雨に何もかも頼りすぎるのも気まずかったため、働きに出た、と言われています。

しかし、女性が働く場のなかった時代、教員として働けた節子は恵まれたほうだったと言えましょう。
もともとは良い家柄のインテリ女性なので、当時の女性の上位層の仕事であった教師として働けたのです。

明治期女性教員の勤務状況

上記の本の中で、節子が妹あてに書いた手紙が紹介されています。
(上記単行本のp115~117)
そこでは、幼い子を姑に託し、代用教員として必死に働いた節子の様子を伺い知ることができます。
それによると、明治41(1908)年の年度終わりの3月下旬は小学校の修業生のための手続きで、大忙しだったとのことで、「この十日ばかり目がまわる忙しさで、夜もたいてい12時頃までしらべた」と書かれています。

年度末は現在でも教員は大変忙しいですが、10日間も夜12時過ぎ、とはなんということでしょう!
若い女性が一人で職場にいたのでしょうか?
「しらべた」と多分、卒業生の状況だとは思いますが、どんな仕事をして、どうして10日連続深夜勤務になってしまったのでしょうか?

私も職員室で日付変更線を超えたことがありますが、10日連続、なんてことはありませんでした。
確かに、コピー機も何もない時代のこと、一つひとつの仕事が手作業で時間がかかったことは想像がつきますが、あまりにも過酷な労働環境です。
明治の終わり頃の労働条件がどのようなものか一度調べてみたいと考えています。

節子には幼い子どももいたのに、それは例の姑がみているわけで、老齢の姑に深夜まで小さい子どもの世話は本当に骨の折れることだったと思われます。

節子の手紙の中では、他にも
「長谷川という二年(二年担当?という意味?)の女教師が風邪で4,5日出なかったから一人前半ははたらいたよ」
という愚痴っぽい文章もありませいた。
今も昔も、同僚の欠勤は激務をより大変にします。
愚痴ひとつも言いたくなるのは同じだなあと感じました。

深夜残業しても悲惨さはない

しかし、この手紙には不思議なことに、明るい雰囲気が漂っています。
深夜残業が続いてつらい、というよりは、それを乗り越えた清々しさにあふれています。

私自身もそうなのですが、仕事は、チームで一丸となって大変なものを乗り越えたとき、本当に「やったぜ!」という気持ちになれます。
仕事っていいなあ、この気持ちは他では味わえないな、と思います。
貧困の中であえぐ節子にも、大変な仕事を終えたということが、その状況を忘れさせてくれるような達成感をもたらしてくれたのではないか、と想像します。

節子は結局、啄木が26歳という若さで亡くなったあと、啄木と同じ病で、その一年後に亡くなります。
啄木の妻になったばかりに、貧困のどん底の薄幸な人生だったと言われていますが、啄木の「愛」を信じたのは、明治期の新しい女の生き方そのもの。
深夜残業をこなす姿にも、悲惨さ、よりも勇ましさを感じます。
教師として働く時間は、節子自身の能力でお金が稼げる充実した時間だったのでは?と想像します。

『石川節子‐愛の永遠を信じたく候』


本書を読んだあと、あまりに悲惨な人生を読み進めたため、しばらく心が重くなりました。
でも、親の反対を押し切って啄木と結婚し、彼に振り回されながらも、彼の最期をみとり、子どもを産み育て、見事な生涯でした。

私は節子の二倍近い年月を生きていますが、彼女ほどの密度の濃さで生きてはいません。
本当に節子の生涯に敬意を称します。

そして、私は幸いなことにまだ啄木の歌を、彼の人生を教える機会があると思います。
そのときは、妻の節子さんのことも伝えていきます。




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