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救い 〜根底にある愛〜


何か特別なことがあったと言うわけでもないが、何もないのにこんな突拍子もない表題を思いついたりするわけもなく。

いろんなことが日々起きる。
いろんなことが日々起きない。

起きそうで起きない。
起きそうにないことが起きる。
なんとも不思議な世の中である。


「そんな時代なんだ」とことさらに意識したわけではない朝のひとときに、こんな氣持ちが出てきたので、それを記録をしようと思い立つ。
まとめのお供は、りんごとアボカド、それにブラックコーヒーだ。


私は結構スピリチュアル好き。
魚座だからかなぁと思ったりするけれど、世の中の魚座の人がみんなそうかといえば違うだろう😅

いつ頃からかなと、自分の歴史を振り返ってみる。
雑誌や漫画本に必ず載っている「星占い」に興味津々だった子どもの頃からか。
当時は「マイバースデー」という星占いの本を、少ないお小遣いを貯めて買うのが楽しみだった。

「マドモアゼル・愛先生」が「アニメ・エースを狙え」のお蝶夫人で脳内再生されていた当時の小学生な自分に「なんと!男の人だったよ!今、YouTubeで配信してる!」と教えてあげたらどんな顔をするだろう🙀とか、ちょっと思ったりもする🤣

時間は流れて・・・
タロットカードにはまった時期がある。今もカード🃏を持っている。
本やカードを買い集めて、色々占ったりしていた学生時代。
カードを引く時のドキドキや、望んだ結果が出た時のホッとする感じ、反対に警告やアドバイスが出てきた時に焦ってしまってうまく解釈できないのも今となっては懐かしい。

私がカード占いをすると知った友人から頼まれて、何度か占ってみたけれど、他人のあれこれを占うのは、私にとってはとても怖いことだった。
良いカードが出ればいいけれど、当然ながらあまり良くないカードも同じように出てくる。
カードが伝えてくれてるんだよ〜と今ならと言えるかも?だけど。
そこまで自分の「占い力」に自信がなくて、なんだか自分が友人の未来を悪く言ってるように思えて心が苦しくなった。
自分の根底にある「劣等感や罪悪感」がそう思わせるんだ、と氣付くことになるのはまだまだ先のことで、当時の自分は『こういうの、私には向かないのかも』と思って、他人を占うのは封印してしまった。

タロットの持つ不思議な力は今も好きで、引き寄せられる。
最近はYouTube動画で数人のタロット占い師さんの動画を時々見たりしている。


学生時代には心理学を学んだ。
歴史に興味があって入学した大学だったものの専攻したのは心理学。
スピリチュアルとは違ったけれど、それでも関心があるのはやっぱり人の心の世界だった。
臨床の世界へは進まなかったけれど、学生時代の遠くて貴重な経験と記憶は今の自分には結構な宝物になっていたりする。


それからそれから・・・
「嫌われる勇氣」という本がブームになっていたのは遠巻きに知っていたけれど、盛り上がりが一段落した頃になってアドラー心理学を調べ始めた。
同時に引き寄せの法則や波動関連のものにも興味が湧く。

どれも自分の中を整えていこうというお話で、起きる現象をどう捉えるかは全てが自分次第だと教えてくれた。
とかく他人や自分以外の何かのせいにした方が楽に生きられる世の中にあって、自分や他人のせいではなくて、自分の受け取り方次第だというその考え方を理解するのが少し辛い時期もあったけれど。

それでも段々と腑に落ちるに従って、生きるのが楽になってきた感じもあったりする。

そうして徐々に「いろんな次元という名の世界」を覗いてみようかな〜と思い至り、今があるという感じ。


そしてようやくここからが最近のこと。

ネットのつながりのおかげさまで、検索すれば色々と画面に表示されてくる。と同時に、少し昔に見つけていたものたちはどこかへ消し去られたようにも思える。
あれ?どこ行った?以前は簡単に見つかったそれらの情報は、今ではほとんど目にしなくなった。なんでかな?そんな不思議を感じつつ。

スピリチュアル情報の精度もさまざまあって、どれを選ぶのかも自己責任。
基本的には自分の氣分が上がるものだけをチョイスする。
YouTube動画の占いコンテンツ、他にブログやnoteの記事も。

そんな中で・・・

同じことを発信しているんだなと思うことが往々にしてある。
情報の濃い薄いはあれど、皆さん同じ情報源を基に発信しているのだから「そりゃそうだ」な当たり前の事なんだけれど。
そんな中にあって、同じ内容であっても発信する人が違うと”届けられるエネルギーが違うんだ”ということに氣がついた。
氣がついた・・というか、前々から微妙に違和感を感じていたところだけれど、それにようやく合点がいったという感じ。

そんなの当たり前。今更何を言ってるんだろ?って思われるかも知れないし、自分でもちょっとそんな風に思ったりしているけれど💦


自分が知っていることを、他人に知らせるためにはどうするか?
出来るだけ大勢のあんな人にもこんな人にも知らせたい
大勢の人に知らせたいんだ・・・
とにかく知らせなくちゃ・・・


自分だけが知ってること、伝えてあげるよ。
仲間になったら伝えてあげるよ。
有益な情報はここにしかないの・・・
それを伝えてあげるから・・・


決して発信者の良し悪しを言ってるわけではないんだけれど
(うまく伝わるかなぁ🙄)
目線の角度の問題になるのかな?


話はまたしても別な方向へ。

人から何かを言われた時のこと。

Aさんの言葉は素直に聞けるのに、同じことBさんに言われたら「カチン」とくる、そんな経験ってありますよね。多分あるでしょう?いえ、あるに違いありませんよね😅
(ないって人がいらしたらごめんなさい🙇‍♀️(笑))

これ、どういうことなのかな?を考えてみます。

言葉のチョイスの問題もあるかもしれない。
「そんな言い方したら『身も蓋もない』でしょうに」っていうような、いわゆる表現方法に”拒否感”を感じるのかもしれない。

でもさ・・・
言葉はどうあれ、中身はおんなじなんだよね?ってことは何が違うのか?

うーん・・・伝えてる内容は同じなはずなのに。

そこに乗せられる話し手の”思いのエネルギー”が違うのかな。
だから受け取る時に”感じるもの”が変わってくる。
そういうことあるだろう。

さらに、それを聞いてる側の問題を考えてみると・・・
その事柄についてどこまで深く考えているかによって、聞こえてくる言葉が違って響くのかもしれない。

そんな風に思い当たる。

本氣で理解したい!解決したい!って真剣に考えてそのことを聞いている時と、時間潰しになるからまぁいいか〜って思いながら聞く時とでは、重みが変わって当然といえば当然だ。
例えば一秒一刻を争うような場合、例えば何かの危機に面しているような場面。
深刻度合いが変われば、受け取り方が変わってもそれは当然。

語り手と読み手、話し手と聞き手といった登場人物、その時に話題になっている事柄、そして置かれている状況。
それら全ての関わり方をひっくるめて「相性」と呼ぶんだろう。

Aさんの柔らかい雰囲気の言葉が心地よく聞こえる人と、Bさんのハッキリした物言いを氣持ちよく感じる人がいるということ。
その上で話題になっている事柄に興味がある人、その件は箸にも棒にも引っ掛けない人。
そして時期も関係する。真剣に答えを探している時期かそうでないか。

これらを全部ひっくるめて・・・

心の内側のエネルギーの種類が近かったり遠かったりすることを「相性が良い・悪い」って表現するのかなと思ったりする。


うまく出来てて面白いね、世の中って・・・
そんな感想でまとめに入る準備をしている私(笑)


こんな世の中だからこそ、いろんな情報を発信したり受信したり。
ネット環境があれば誰もが発信者になれて、誰もがいろんな情報をゲットできる、そんな時代。


だからこそ・・・
発信する立場であっても、受信する側になっても、その根底にはしっかり「温かい氣持ち」を持ってその事柄に接することを忘れないようにしたいなと思う。

自分の心から出るエネルギー、誰かに届いた情報から出るエネルギーが「愛溢れたもの」になるように。


そう、マドモアゼル・愛先生に敬意を表して(`・ω・´)ゞ ね🎶
(小学生だった私は腰を抜かすと思うけど〜←まだ言ってる🤣)




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