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個性を選ぶ時代

下記の記事の終盤に記載している、
「アイドル」のことについてもう少し詳しく書いてみたいと思う。

私は平成生まれ、個性を選ぶ時代を生きてた。
アイドルを観察すると世の中のニーズ、すなわちどのように情報操作が行われているかが薄らと感じられる。ユニークなものに憧れを抱くことが何故少なく、または薄くなってしまったのだろう。

このアイドルと並列に「ディーヴァ」のことも取り上げたい。ディーヴァとは歌姫のことである。

昭和のディーヴァは遥か彼方に存在していて、その歌声は電子機器の良し悪しに大きく左右されながらも民衆に届けられていた。昭和に生きていないので誰かをピックアップするのは危険だと思いそれをやめる。

平成前期から中期ではディーヴァは一度手元にまで降りてきてくれた。対象が等身大の若者のソレになったことも要因している。
ここでは安室奈美恵さん、浜崎あゆみさんを例に挙げてみる。ファッションアイコンとして憧れの的になり、かつ、歌う内容は自身の恋路に広く深く刺さる内容のものが増え始めた。
そして事もあろうかシミュレーションとして捉えたかの如く、その歌詞に自身の体験を擦り寄せて改ざんするものや、この時からか憧れはエスカレートし、目を大きくする切開手術等が水面下では行われ始める。
ディーヴァは神々しく華やいでいる。が、どこか神格化が人工的にも思えてしまう。
そしてまた歌姫は神格化されていく。

そして平成の中期から後期に刺しかかると別のディーヴァが舞台から地上に降りてきてくれる。西野カナさんの登場である。西野カナさんといえば自身の等身大の恋を歌い上げていた印象が初めは強かったが、あまりの恋物語のレパートリーの多さに驚く事があった。そしてその答えは簡単に晴れた。
人の恋の「平均を取り上げていた」のである。
友人やファンの方々の恋事情を編集し、幅広い層に刺さるようプログラム化され、民衆に届けられる。昔からあった手法ではあるが、情報社会の現代において飛び抜けてハマった事象である。
そして余談ではあるが、当の本人が好きな音楽はレゲエである。所謂ジャパレゲと呼ばれるものではなくジャマイカのガチのモノ。ここにぼくは西野カナさんの奥行きを感じた。

話は終盤、いよいよ令和である。
この令和ではどのようなアイドルとディーヴァが出てくるのか。現段階でのアイドルの主な構図は前回の記事にもまとめたように、個性をまとめた組織をさらに個として認識するような位置付けである。個人的には中国からアイドル、またはファッションアイコンが誕生し、韓流ブームと双璧をなすのではないかと感じている。ただ中国内部での政治的要因がもう少しそれを先延ばししているのも事実、少なくとも5年はかかるのではないだろうか。
そしてディーヴァ、今だとMISIAさんであろうか。その圧倒的な歌唱力と風格にまた一気に神格化されてしまったように感じるが、歌うソレは心を癒すものばかりである。MISIAさんは何もいきなり出てきたわけではないのはご高覧頂いている皆さまもよく存じているかと思う。

個性を選ぶ時代のなか、時代の望遠のピントは今は、圧倒的にユニークなものを必要としているのかもしれない。

長々と感情に任せた拙い理論じみたコトを書いてしまい、それを最後までお付き合いいただき誠に有難うございました。
何の物的証拠もない空論ではございますが、このような大それたコトを日々考えています。

最後に、
皆さまにとって「個性」とは
どういうものであるか。

を直接でもコメントでも、非常に凝り固まってしまったぼくの脳に熱いアドレナリンをぶっかけていただければ幸いです。

ありがとうございました。

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