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互いの価値観を共有しないでも、いっしょに生きていけるのか。

ここのところ、泣くことが多い。
元来泣き虫な私であるが、ここ数ヵ月の引きこもり生活と妊娠のホルモンバランスのおかげで輪をかけて涙腺がゆるゆるだ。

そんななかで、いままでなんとか我慢できた、パートナーとの価値観のちがいをどうしようもなく悲しく感じてしまう。

私はいわゆる健康志向の人間だ。
それは幼少期から免疫力が低く、体調を崩すことが多かった母の元で同じく脆弱な免疫をもって生まれ、体調不良と常に付き合って生きてきたためだ。
「元気で自分のしたいことをできるだけの体力があることへのありがたさ」を実感していて、それを手放したくないという欲があるからだ。

そのため、食事に気をつかい、足りない栄養を様々試した上でたどり着いた信頼するサプリメントで補い、体調の崩れを感じれば休養を優先する。

反対にパートナーはそうした健康志向をはじめ、オーガニックだとかグルテンフリーであるとかビーガンなんてものは敬遠しているタイプの人間だ。
お金持ちが選り好みして高価なものをわざわざたべているんでしょう、くらいに思っているのかもしれない。(私は決してお金持ちではない。なんなら妊娠をしてからは無職である。)
パートナーはジャンクフードが好きで、ゲームやプラモデルなど趣味での夜更かしを好んでする。

私とパートナーは同い年であるが、パートナーは高校卒業後にすぐ就職して一人暮らし歴が長い。ひとりでの生活に慣れているからか、気分が向いたり、目的があったりすれば、時間を問わず出かけられる人でもある。ゲームセンターも好きであるし、夜中のドライブで山のヘアピンカーブを愛車で走り抜けていたような青年期を過ごしている。
一方の私は、保育士で健康な身体発育を主軸に置いている母のもとで野遊びで育った。母自身が田舎の農家育ちゆえにゲームやらに馴染みがなかったのも大きいのだろう。パートナーと出会うまでずっと実家暮らしをしていたため、同居人である母の都合も頭にいれて動くことが常になっていた。その上、大学時代はアーティストに師事して展覧会スタッフやイベントの裏方に時間のほぼ全てを費やしており、青年期に遊んだ記憶がない。

私とパートナーは正反対の生活感を持っており、なんならよく知り合ったものだというほどなのである。

もともとそうなのだから、相手に自身の価値観を強要しないことが暗黙のルールになっていた。

だが、ここ二日ほど、パートナーか体調不良だ。
流行の感染症もあるし、不安と心配が重なり、栄養補助のためのサプリメントを勧めたり、早く寝かそうとしたり、すこしパートナーに干渉しすぎた。

今日はこうしてって、すこしうるさかったね。
うれしいけど、ちょっと嫌だった。

そうだね、ごめんね。

涙が出た。
自分の不安から過干渉だったかもしれない。
でも思ってしまう。

いま私のおなかには新しい小さいいのちがいて、そのひとを守らなきゃで、それはあなたも一緒にいてほしくて、そのためには私もあなたも元気でいなくちゃで。
それに口を出すのは過干渉なのだろうか。

私のすすめるサプリメントを怪しむパートナーにも傷ついてしまった。本当はずっと怪しまれていることに傷ついていた。
だって。
パートナーに自分の信頼するものをすすめた。

飲みたくない。
それ飲んだら体調が悪くなるかも。

怪しまれた。

それは私自身の価値観に対して訝しむのと同義じゃないだろうか。
要は、私のことを信頼していないってことなのではないか。

そうおもったら、涙がとまらなくなった。
私と彼は別々の人生を生きている、と感じてしまった。
二人だけならいい。それぞれの価値観で生活していても、まだ成り立つ。
相反する価値観には目をつむり、いっしょにいられるかもしれない。

でも、これから子どもが生まれてきたら?
それで生活していけるんだろうか。
生まれてきてくれた命をまもり、生かしていく責任は、私とパートナーのふたりで担いでいかなくてはいけないのではないか。
そのためには二人とも元気に健康でいることは、その責任を全うするための条件として干渉し合わざるを得ない部分なんじゃなかろうか。

私の価値観を信頼しないということは、子どもに関わること全般で反目することになるのではないか?

それは飛躍しすぎだろうか。
被害妄想だろうか。
マタニティブルーで感傷的なんだろうか。

すべてを理解し、共有する必要はない。
けれども、時には歩み寄ることは必要なんじゃないだろうか。
いっしょに生きるなら、時に向き合い、話し合い、相手の価値観を取り入れることも必要なんじゃないか。

それをせずにいたら、それぞれの価値観を尊重するといってそのまま平行線を歩いているつもりが、いつの間にか全く別の道を歩いていて、それぞれ別の風景を見ていた、ということになるんじゃないだろうか。

別々に生まれて、それぞれ生きてきて価値観を育ててきた。
その別々の生き物が寄り添い生きようとしたら、観察と対話を怠らず、愛をもって相手を思いやることが重要なんじゃないだろうか。
そのなかで相手を受け入れたり、相手に受け入れてもらったり。

それがどの程度、いつどのくらいかは、まだわからない。これから少しずつ築いていくものなんだろう。

でも、私が悲しくてひとり泣いているのは、それが足りないと感じているからなんじゃないか。
傷ついたことを言わないでおいたら、それは対話をあきらめることになるんじゃないか。

そう考えながらも、これをわかってほしい、受け入れてほしいと言うことは自分の感情を優先して自前の価値観を相手に強要することになるのではないか?とも考える。

いまのは私はどっちの私を応援すべきかわからない。

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