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アゴタ・クリストフの三部作「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」読了。

隆祥館書店の一万円選書で「悪童日記」と「ふたりの証拠」の二作まで薦められた。どんな話なのか、そのタイトルからはまったく想像もできないまま読み始めた。

衝撃的な小説だった。
第二次世界大戦中のハンガリーで幼少期を生きた双子の兄弟の物語が、三作それぞれが異なる表現方法によって描かれている。

「悪童日記」は、ふたりで一人のぼくらの日記という体裁がとられている。その独特な構成と感情のない文体から、ふたりが戦時下で生き抜いていくための逞しさと切実さのようなものが際立っていた。
有り体に言えば何が正しいとか正しくないとか、何が善とか悪とか、そういった価値観が大きく揺れ動く世界で、ふたりは賢いがゆえに冷徹にならざるを得なかった。それでいて随所に愛情が散りばめられていた。常に矛盾と共存しなければ生きていくことさえままならない世界を、まざまざと見せつけられた。

続く「ふたりの証拠」では、その後のひとりをめぐる凄絶な出来事を中心に描かれる。
「悪童日記」は登場人物が固有名詞を持たないことで、世界がまるでモノクロームのように感じられた。「ふたりの証拠」では双子の兄弟をはじめ、登場人物が名前で呼ばれ、世界が色づいていたはずだった。それなのに気がつけばモノクロームの世界に見えたのは、物語が進めば進むほどただひたすらに積み上がる虚無感によるものだろう。彼のまわりには愛情と死とがいつも隣り合わせにあり続けていた。
こんなにも救いのなさを感じる小説を、私はこれまでに読んだことがなかった。しかし、それで終わりではなかった。最後の一章、もうひとりが描かれることで、これまでのすべてに疑問符がつき、何が何だかもう訳がわからなくなった。読んで字のごとく頭を抱えた。

隆祥館書店の二村さんには、まんまとしてやられた。一体誰がここまでで留まれるというのだろうか。「悪童日記」だけであれば、そこで留まった可能性もあっただろう。二村さんは三部作の二部までを選書した。「ふたりの証拠」を読み終えるとすぐに隆祥館書店に連絡し、「第三の嘘」を取り寄せた。

「第三の嘘」は出だしからもう整理がつかなかった。過去と現在(と思われる)が、夢と現実(と思われる)が、虚と実(と思われる)が、幾重にも折り重なり、交差したかと思えばまたほどけていく。
彼らにとっての事実とは何なのか、嘘とは何なのか。悪童日記とは、ふたりの証拠とは、一体なんだったのだろうか。そして意味深長なタイトル、第三の嘘とは…。

この三部作は、(三部からなる構成も、それぞれの作品も)複雑な構成でありながら、感情が込められていない客観的な文体のためか、いつの間にか断片と断片が繋がり、読み進めるにつれ、徐々にその物語の輪郭がはっきりしてくる。いや、はっきりしてくるような気がする。気がするだけで最後まではっきりはしない。

「悪童日記」でさえ決して感情移入ができるほど生易しいものではなかった。しかし三部作すべて読み終え、悪童日記すら救いの物語だったように感じる。それほどまでにこの双子の兄弟の人生は絶望的だった。

戦争、家族、愛情、生死、人生、障害、亡命、労働、離別、幸福、現実、虚構。いくつものテーマが折り重なり、心の引っ掛かりどころがそこかしこにと無数にあった。
そして、今の日本に生きる私がいかに小さい世界観の中でうごめいているのかを、否応なしに突きつけられた。

物語自体が何層構造になのかすらもよくわからないままに読み終えたが、とてつもない作品に出会ったことだけは確かだった。

私は時として虚無感や無力感に苛まれることを心の底で欲していることがある。それが私の生きる力の源泉であることを私は知っている。この三部作はそれを確実に私の中に残していってくれた。

一冊の本は、どんなに悲しい本でも、一つの人生ほど悲しくはあり得ません。

作中の一節が無性に胸に染みる。



【隆祥館書店ホームページ】

【悪童日記】

【ふたりの証拠】

【第三の嘘】




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自分の真意を相手にベラベラと伝えるだけが友情の行為ではないということさ。それがわたしの提唱する真・友情パワーだ…(キン肉アタル)