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コミュニケーションが苦手な人によるコミュニケーションに関する一考察 ~コミュニケーションに悩む若者へ送るエール~

「額面通りに受け取る」という慣用句があります。説明するまでもありませんが、「言葉の意味をそのまま受け取る」という意味です。「真に受ける」「鵜呑みにする」と言い換えることもできますが、それらと同様、真に受けてはいけないとき、言葉の裏を読み取らないといけないようなときに使われます。しかし、それの言葉を投げかけていいのは、「額面通り」に言葉の意味を理解できる相手だった場合だけです。そもそも言葉の意味が通じていなければ、裏どころか表が読めないのでまったく意味をなしません。
こんなことが頭をよぎってしまうほど、日常的にミスコミュニケーションが起こっています。


私は子どものころからいつもコミュニケーションに悩まされてきました。人と話すことに対して苦手意識を持つ人はとても多いのではないかと感じていますが、私自身、幼いろからあがり症、人前に立つだけでも緊張してしまい、汗をかき、小刻みに震え、ただ立ち尽くすなんてこともしょっちゅうでした。何とか声を絞り出したとしても、ただでさえ通らない声質ですから、ほとんど相手に聞き取ってもらえることもなく、周囲を心配させ、失望させ、あるいは苛立たせていました。初対面の人はもちろんのこと、何度となく会っている人に対しての会話でさえ、一体何を話せばいいのかわからず頭が真っ白になったり、考えが言葉としてまとまらず、文字だけがただひたすらに頭の中を延々と回転しているような感覚になったりもします。
ところで、子どもたちの会話に聞き耳を立ててみれば、時としてほとんど会話になっていないけれどもスムーズに会話が続いてくいくことがあります。もはや言葉に意味などあってないようなもので、音と音が行ったり来たりを繰り返すことがそれすなわちコミュニケーションであり、それで十二分に成り立っているのです。小さい子どもたちの方が言語が違う人ともすぐに仲良くなれるというようなことも聞きますが、それも似たような現象なのかもしれません。詳しくは言語に詳しい方にお任せするとして、ともかく子どものコミュニケーションというのは、大いにいい加減さを抱え込んだまま進行していくものなのだろうと思います。
にもかかわらず、(と言っていいのか、当然のことながらそんなことを考えている子どもは皆無に等しいでしょうから仕方ありませんが、)私は子どものころからコミュニケーションを取ることに対して、常に何かしらの不安を抱えていたのではないかと思います。相手は自分に何という言葉を求めているのだろうか、求めていない言葉を選んでしまったらどう思われるのだろうか、正解などない会話に正解を求めていたのかもしれません。見えない言葉だからこそなおさら、正体不明の何かに怯えていたのでしょう。言葉に詰まれば詰まるほど、余計に恐怖心が大きくなり、ますます言葉が発せられなくなっていったのです。
歳を重ねるにつれて、閉じられたコミュニティから少しずつ開かれたコミュニティへと場が移っていきます。たとえば中学校では別の小学校の生徒と出会います。高校では県内各地から、大学では全国各地から、そして社会に出れば年齢幅も急激に広がります。子どもの頃のある種いい加減なコミュニケーションによって培われた経験を引っ提げ、また新たなコミュニティでのコミュニケーションを繰り返していきます。ここで影響してくるのが日本人が長けているとされる「空気を読む」能力です。実際には何に基づいて比較されているのかわかりませんので、事実かどうかがわからないため注意が必要ですが、いずれにしても「空気を読む」ことから完全に開放されている人はきっと少ないでしょう。
「空気を読む」とは、「対立を避けることを優先する」と言い換えても差支えがないのではないかと思いますが、自己主張を控え、周囲に合わせることで人間関係の摩擦を少なくするという、ある種の生存戦略のようなものです。特に学生時分は、年代もしくはグループごとにある独特なノリみたいなものがその場を支配することになりがちで、それに合わせられるかどうかがそのコミュニティに馴染めるかどうかの決定的な差になると言えるでしょう。社会人になってからも組織文化として多かれ少なかれ現れてきます。
この「空気を読む」習慣がコミュニケーションの土台として築かれてしまえば、人の言葉と人の言葉のやりとりから本意ではない合意が生まれます。とすれば、子どもの頃のあのいい加減なコミュニケーションからさほどの進歩はないようにも思えてきます。ここに冒頭の問題があるような気がしてなりません。
ここで誤解のないように付け加えるとすれば、私は「空気を読む」能力はとても重要な役割を果たすと思っています。対極に「論破」という言葉に代表されるような、行き過ぎた「自己主張」が一時期もてはやされていたような感もありますが、私が大事だと思うのは、自身の正しさを示すことに重きを置く主張をすることではなく、相手を慮った(空気を読んだ)うえで自分の言葉と他者の言葉の意味や意図を正確にとらえ、相互理解を図っていくことです。
人が扱う言語は、それまで過ごしてきた環境、社会、時代などによって意味づけられていくものだと思います。背景が大きく異なる人たちが混ざり合うコミュニティにおいて、本来はその人が発する言葉の意味を理解するには、言葉自体の持つ意味に加えて、その人との関係性や置かれている立場、言葉の選び方や思考のクセなど、実に微妙で複雑な要素を積み重ねて考える必要があります。しかし、すっかりいい加減なコミュニケーションに浸ってしまった人にとっては、他者の言葉の意味を正確にとらえる必要性が薄く、また同じように自分の言葉を正確にとらえてもらう必要もないため、自分でも気がつかないうちに、言葉と言葉を交わし合えばそれで十分にコミュニケーションが成立していると思いがちになるのは無理からぬことです。そして、ここが大きな問題なのですが、そういったコミュニケーションにおいては、相手の言葉の意味が理解できていないことに気がつきもしないほど自然に会話が成り立ち、まるでお互いに理解し合っているかのように錯覚してしまうことが往々にしてあるのです。同じ言葉でも違う意味合いで使っていたり、わからない言葉や表現があっても気にも留めなかったり、自分の考えに合うように都合よく言葉を解釈していたり、本当は違う考えなのに同意しているふりをしたり。嘘をついたり誤魔化したりするのはまた別の次元だとしても、本人も気がつかないうちにそれと似たようなことをしてしまっていることも少なくありません。本当に重要なのは相手の言葉の意味を理解し、また自分の言葉の意味を相手に理解してもら、という相互理解のはずです。さらにはその相互理解をもとにどのように行動するかにつなげていくことです。
いい加減な、けれどもなんとなく心地の良い表面上のコミュニケーションの積み重ねは、波風を立てないように集団に溶け込むためにはこの上なく重要な技術です。しかし、集団が何かを目指すときには、お互いに一方通行のやり取りを生むその技術が邪魔にもなるのです。その結果生じる軋轢は、世の中の至る所で起き続けているので、誰もが容易く想像できることだろうと思います。肝心な場面で意図が伝わっていなかったことが明らかになれば、(特にそれが利己的な言動であった場合においては、)ことによっては関係性が崩壊していくことも珍しい話ではないでしょう。一度崩壊してしまえば修復には気持ちと時間と労力を費やすことになります。費やせないことも多く、むしろ費やしてさえも修復できないことがあたりまえのようにあります。そうならないためにも、とにもかくにも言葉をないがしろにせず、きちんと理解する姿勢が必要だと思うのです。まずはせめて「額面通り」に受け取ることくらいはできるようにならなければならないでしょう。受け取るも受け取らないも選択できるほど額面を理解していないことが殊の外多いと感じるので、裏を読もうとして疑心暗鬼になるくらいなら、まずは鵜呑みしてみることを強くお勧めします。


さて、コミュニケーションに悩み続けていた私は、「空気を読む」力を身に付けることができずにいました。必要以上に言葉に神経質になっているのだと思います。自虐的に「友だちが少ない」などと言うこともありますが、それは友だちをたくさんつくるのに必要な集団に溶け込むためのコミュニケーション能力が欠如していたからにほかなりません。その代わりに得られたのが、言葉の意味を正確にとらえようとする姿勢だと考えています。多くの人と友達になるということにおいてはさほど大したことではないのかもしれませんが、深い人間関係づくりや仕事においてはそれなりに重要なことのように思います。間違っても私が相互理解に長けているとは思いませんが、相手の言葉の意味を理解するという面では、自分が小さいころから抱いていたコミュニケーションが苦手だという感覚よりかは幾ばくかましだったんだと、今では感じています。

もし若い人たちの間で、コミュニケーションが苦手で悩んでいる人がいるのなら、その悩みはいずれ反転して自分の武器にすらなり得るということを知ってほしいと切に願います。そのうえで、今のコミュニティでのコミュニケーションがうまくいっていないことに思い悩んでいるのなら、とことん思い悩めばいいと思います。それによって自分を否定しすぎることはありません。たまたま今の段階では自分の持っている特性とは違う特性が有利に働く(ように見える)場にいるというだけなのです。思い悩みながら自分にない特性を理解すればいいと思います。その反対に、今はうまく使えていないけれども確かに持っている自分の特性も確かにあります。いつか自分の特性が合う社会、集団、環境に出会えたときに、今度はそれがなくて悩んでいる人を助けてあげられる立場にきっとなります。
言葉を軽快には扱えないかもしれませんが、その分丁寧に扱うことができるかもしれません。
たくさんの人の輪に馴染むことはできないかもしれませんが、数は少なくても一人ひとりと向き合うのには向いているかもしれません。
空気感に支配されて傷つくことがあるかもしれませんが、誰かと独特なまねできない空気感を作り上げるのには向いているかもしれません。
誰かを引っ張っていくことは難しいかもしれませんが、誰かと誰かがぶつかって困っているときにそっと手を差し伸べることができるかもしれません。
話すことは苦手かもしれませんが、聞くことは得意かもしれません。
話すことは苦手かもしれませんが、書くことは得意かもしれません。
話すことは苦手かもしれませんが、読むことは得意かもしれません。
話すことは苦手かもしれませんが、考えることは得意かもしれません。
コミュニケーションとは、「コミュニケーション」という言葉が持つイメージよりもずっと広くて深みのある言葉です。悩むからこそその輪郭が見えてくるものです。悩んでいるからこそ明るい未来が待っていると、私は思います。


さて、この文章を書きながら、私は自分の気持ちや考えを人にうまく伝えられる力が著しく弱いので、書くことと話すこと、少なくともいずれか片方では自分の言葉を伝えたいとおりに伝えられるようになれたらいいな、という気持ちになりました。



以前書いた【内向型に悩む若者へ送るエール】も置いておきます。

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