『saṃsāra(サンサーラ)』5

5       雲
 
雲の中、私は犬を連れてひたひたと歩き続ける。足を少し取られながら。蝶が作り上げたガラスの橋の上を私たちは歩いていく。
そこへ突然、何かの視線を感じた。
視線の先へ目を向けると、そこには大きな目玉がポカンと浮かんでいる。
私は驚き、歩みを止めてしまう。急に立ち止まったので犬はびっくりして振り返る。
「旦那様。いかがなされましたか」そんなとぼけたことを言っている。
「なぁおまえ。これはなんだ」震える声で何とか聞いてみる。
これ?と少し首を傾けた後、彼女はその大きな目玉の方に目をやる。
「旦那様。これは私にも」そう言いかけたあたりで、大きな目玉が少し微笑んだように見えた。
その刹那大きな音があたりに響き渡る。
大きな鐘の音。ドーンとかボーンとか、そんな大きな鐘の音。1回だけだったがはっきりとあたりに響き渡る。周囲のものに知らしめる。
その鐘の音を合図にしたのか、クジラは
『ぶもおおおおおおぉぉぉぉぉぉぅぅうううううううううううううううううううううう』
と叫び声をあげる。
あたりの雲が上へ下へと押し出されていく。あっという間に周囲の雲は私たちの頭の上へと足元に追いやられてしまった。雲の間を、目玉の正体がゆるゆると表れた。
クジラだ。
大きなクジラはまさに雲の間を、空の中空を軽々泳いでいた。
私たちが歩くガラスの橋の横を気持ちよさそうに泳ぐ。
それにしても大きな体だ。端の方まで見えやしない。雲の中にこれだけ大きな体をどうやって隠していたのだろう。
大きな体をくねらせてクジラは泳ぐ。
犬はそれを見て何事もなかったかのように、気持ちよさそうに歩き始める。クジラの歩みに合わせて。私はその様子を少し緊張した面持ちで眺めていたが、やがて犬と同じように歩き始めた。
歩きながら私は、ふと思う。その大きさに圧倒されていたが、これは特に私たちへ危害を与えてきたりするものではないのか。そう思ってクジラを観察してみる。
すると、クジラの体にはあちらこちらにかさぶたの様なものがある。それをよく見てみると、貝殻がこびりついているようにも見える。それはなかなかの大きさで、一つ一つが私の背丈ほどあるものもあった。
それをさらに観察していると、その貝殻の様なものは薄緑色をしている。そしてその中には生き物が入っていた。どの貝の中にも。
中には、クマが入っている物やサルや羊が入っている物もあったが、圧倒的に人が入っている貝が多かった。先ほどまでの思いが逆に触れ、その様子に私は心が縮む思いになった。
そこで私は犬に小さな声で
「なぁ、お前これは私を襲ったりしないものかね。あんな風に閉じ込められたらかなわないよ」犬も私の声の大きさに合わせて、すごく小さな声で
「旦那様。あれは訳があってああなっています。詳しいことは私にはわかりませんが、だれでもああなるわけでは無いようですので気になさらない方がいいかと。それよりも少し急がないといけないかと」
犬の歩く速度が上がっていく。クジラは私たちの横を泳いでいる。それを見ながら歩くのだが、あれに気が付いてしまっては、やはり気持ちのいいものではない。そんなことを思っていると、ガラスの橋は少しずつ薄くなっていく。ガラスの橋は少しずつ蝶の体を取り戻し、少しずつ持ち場を離れていく。きらきらと羽ばたきながら。赤や青や紫の羽をはためかせながら。
「旦那様。気持ちがおぼつかないのではないですか?そんな事だと落ちてしまいますよ」
「落ちる?」
「旦那様。この橋の事はよくはわかりませんが、旦那様の心持と連動しているようですので、旦那様が不安になれば蝶はどこかへ行ってしまって、橋は消えてしまいますし、しっかりしていればしっかりした橋になりますよ」
そんなことを言っている間に、空の雲から人が落ちてきた。クジラはそれをうまく背中に乗せる。すると、人はすぐに貝のように固まっていく。緑色の貝の様に。
それを見て私はなお、気持ちが悪くなっていく。ガラスの橋はどんどん薄くなっていく。蝶はどんどん離れていってしまう。私はそれを見てますます慌てていく。不安でいっぱいになっていく。
 
犬は急に歌いだす。
どこかで聞いたことのある歌を。
どこかで口ずさんでいたはずの歌を。
どこかで歌っていたような歌を。
今では忘れてしまったその歌のメロディに私も音を乗せてみる。
あっているのか間違っているかはどうでもよくて。
その歌に身をゆだねるだけでそれは気持ちがよくなっていく。クジラも楽しそうにその様子を見ている。
 
ぼんやりと私の意識は遠くに行ってしまう。
犬の声がどこかに聞こえる。
「旦那様。急がないと」
 
 
 
「旦那様。起きてください」
はっと我に返る。ガラスの橋の上で大の字になっている。
犬は心配そうに私の顔をのぞいている。目に光が宿ったのを確認すると犬は私の顔をぺろりと舐める。
「こら、やめないか」言葉の中の、嬉しさの方が勝っている。それを感じたのか犬の言葉は跳ねている。
「旦那様。よかった。どこかに行ってしまわれたかと思いましたよ」
「どのくらい、ここにいたのかい」ぼんやりとした頭でぼんやりとした受け答えを吐き出す。
「旦那様。私は犬ですから細かいことは良くは分かりませんが、しばらくぶりでございますよ」
いつもの答えにならない答えを聞き流す。頭はさえてくる。
 
雲はあの時の様にすっかりガラスの橋を覆っている。
クジラが現れるその前の様。
立ち上がって、ところどころにある薄い雲間から当たりの様子をうかがう。
 
小さなクジラが泳いでいる。どうやら何頭も何十頭も、あたりを泳いでいる。
「あのクジラたちは?なんであんな風に小さくなっているのだろう。そもそもあの大きなクジラはどこへ行ってしまったのだろう」犬に聞いたところで答えが出ないのもわかっている。しかし聞かざるを得なかった。それはとてもクジラの大きさ、数が変わってしまうなんて、どうしても私には考え付かなかったから。
「旦那様。私は犬ですから細かいことは良くわかりませんが、彼らの大きさも数だって、いつだって何も一つも変わっていませんよ。変わることなんてないのです。もし、変わったとするならそれは旦那様の方かもしれませんね。もしくは旦那様にはそう見えていただけではないかと」
「私がか」思わず両の手を見てみるが何も変わっている様子はない。
「変わったも何も、私はこの通り何も変わった様子がないが、どういう事だろう」小さなクジラは何匹も雲の合間を泳いでいる。気持ちよさそうに。
海の中を泳いでいるのと何ら変わらない。
その体にはやはり緑色の貝のようなものが何枚も張り付けられているが、今ではその中に人がいるのかクマがいるのかはっきりとはわからない。
背中の穴から虹が勢いよく噴き出す。
虹はこうやってできているのかと感心していると、急に風が吹いてくる。土のにおい。
雲は揺れている。
クジラも揺れている。
犬と私はただ黙ってそれを眺めている。
確かに私は何かが変わったのかもしれない。
何も変わっていなのかもしれない。
虹はきらきらとどこかへ飛んでいく。
緑色の貝たちは、少しだけ瞬いた後、キノコの胞子のように飛び立っていった。
粉々に散り散りに。いろいろな色が風に運ばれていく。
私と犬はただその様子を眺めている。
クジラはその様子を眺めている。楽しそうに。
 
ガラスの橋の水たまりに、私の顔が映る。
その顔に見覚えはない。それが誰かわからない。分からないが、私が顔を傾けるとその水たまりの中の顔も同じように顔を傾ける。
上を向けば上を、下を向けば下を。しかしこの顔に見覚えはない。この顔の記憶はない。
 
犬が言うように私が変わってしまったのか。
記憶はどんどんなくなっていく。
良いことなのか悪いことなのかさえも、分からなくなっていくほどに。
すでに自分の顔についてのことすらも、どうでも良くなっていく。
忘れていく。
 
雲はどんどん集まってその姿を濃く、力強いものへと変えていく。
 
その中を私たちは先を目指して進んでいく。どこに向かっているかは相変わらずわからない。先を歩く犬の鼻の頭をかき分けて、雲は後ろへと流れていく。
犬の横を通った白い筋が長く蛇のように絡みついていく。蛇の様に絡みついていたものは、まさしく蛇になっていく。そんな小さな蛇たちは、ポトリポトリとその姿を橋の上に投げ出していく。
犬の後ろを歩く私は、それらを踏まないように気を付けながら、そろそろ歩いていく。
ガラスの橋はまだ続いていたが、犬はなぜだかその雲の壁の中へ方向を変える。
私はあわてて
「おい、またないか。大丈夫なのか」と犬に声をかける。
犬は何も答えず、グングン進んでいく。私は引っ張られるままそれについていく。恐る恐る雲の上を歩いていくような格好になってしまう。そんな風にして私は犬の後をついていくが、犬は何事もない様に平然と雲の壁の中を進んでいく。
するとそこには、扉のように雲の一部が大きく口を開ける場所があった。そしてその中は空洞のように深く奥へと続いている。犬は躊躇することなくその中へ、どんどんと進んでいく。私を手綱で扇動しながら。あの小さな白い蛇たちも、私たちの後をついていく。雲の壁の中は、まるで迷宮のように曲がりくねっている。何かから何かを守るかのように。犬は右に左に、あたかも自分の家の庭のように進む。
「なあお前。こちらはお前のよく知る場所なのかい」
犬はちらと振り返り私の顔を見る。何ともおかしなことを言うものだと言うようなそぶり。
「旦那様。私は犬ですから良くは分かりませんが、こちらは雲の中ですよ」
雲の中だからなんだというのだろう。私には雲の中の構造などわかるわけがないのだが。
私は合点がいかなかったので、蛇たちにも尋ねる。
「どういう訳なのだろう」蛇たちも口をそろえて
『それはそうでしょう』などという始末。私は何が何だか分からなくなっていた。
その時だ。
 
またどこか遠くから鐘の音がする。
ドーンとかボーンとかいうあの音だ。今度は2回。
周囲の誰にも知らせるように、周囲にその振動を響かせて。
 
そうするとやはり犬はそれを聞いて、あの時の様に
「旦那様。少し急ぎましょう」蛇たちもそれに倣って
『少し急いだほうがいいね』とか言い出したりしている。
犬は手綱をグングン引っ張る。もう振り返ることもなく。
雲の迷宮を右へ左へ、左へ右へ
蛇らもきちんと並んでついてくる。
そうして元の入り口に出たときは、ほっとするのとともになぜこんな回り道をしたのだろうという思いが吹き上げてくる。
「なぁ、お前さん。ここはいったい何だったんだい」聞かずにはいられなかった。
「旦那様。よく言っている意味が分かりませんが、もう少し早く行きましょう」犬は答える代わりに手綱をグンと引っ張る。
『早く行った方がいいに違いないよ』そう言うと蛇たちは、その体を白い蜘蛛の様相に変えたかと思うと、私たちが入ってきたあの大きな雲の穴を見事にふさいでしまったんだ。
私はその様子を驚いたように見ていたのだが、やはり犬は私をグングン引っ張っていく。
「あの蛇たちは」やっとのことで私は言葉を吐き出したのだが、犬は振り返りもせずに
「旦那様。とにかくもう少し進みましょう。進んでも説明できることはないのですが。どうやらここにのんびりいると、よろしくなさそうです」
「そうなのかい。でもあの蛇たちはどうなってしまったのだい」
「旦那様。とにかく行きましょう」犬の言葉は強かったが、言葉に力が入っていない。
犬の手綱にも力が抜けていく。
 
鐘の音があたりに響くと、クジラたちはみな眠ってしまった。
それまで雲の中を自由に泳いでいたのだが、あの鐘の音を合図に一匹又一匹と何かにとりつかれたかのように、横になっていく。
するする下へ降りていくもの。器用にまっすぐ泳いでいくもの。
すべてのクジラは目を閉じている。
「寝てしまったようだな」
「旦那様。私もなんだか、、、」いまにも目を閉じようとしている犬が私に訴えかける。
「まてまて、それは困る」と言いつつも、私は何に困るのだろう。
しかし先ほどこの犬は先を急がないと、と言っていたこともある。
そこで、私は犬をせかし先へと促した。
「なぁお前、大丈夫なのかい」
「でゃんな様。ひゃやく、さきへすすまみましょう」
犬の目はもうすっかり閉じている。
しかしどういうわけだか私の頭はさえている。
そこで、私は犬を抱えガラスの橋を歩き出す。
濡れているところはそれこそつるつる滑るし、雲の壁は相変わらずあたりを白に染めている。
雲から見え隠れしているクジラ達は、どれもが居眠りしながら泳いでいる。とは言ってももうすでに何頭かは下の方へ落ちて行ってしまったのだけれど。
犬はすっかり、幸せそうに寝ている。
犬の寝顔を見ながら先に進む。
そしてふと、この犬の顔に見覚えがなかったことを思い出す。どこかで出会っていたにしても、見覚えがない。不思議な感覚だった。
この犬を運んでいかなければいけない。どこへ。
とにかく行かなければならない。それははっきりとしている。どこへ。
疑問がぐるぐる頭をめぐる。
そしてあの時、犬が歌ったあの歌。聞き覚えはあったし私自身も歌えたのだが、あの歌が何だったのかを思い出せない。というよりここにくる以前のことを何も思い出すことができない。はて、ふと足を止めてしまう。どこへ行くのだったろう。
「だんなさま。」犬が寝言で私を呼ぶ。
目が開かれることはない。
器用に泳いでいたクジラの背中の穴から又あの虹が噴き出したのだが、それの勢いでそのクジラも下の方へと落ちて行ってしまう。
ガラスの橋も私の心持を見透かしたかのように、透けていく。蝶は消えていく。飛び立っていく。そして橋は薄くなっていく。
「だんなさま。」犬の寝言に力を貰う。どういうわけだか犬の言葉が勇気に変わっていく。それだって不思議な感情なのだ。
「待ってておくれよ。今向こうに連れて行ってやるからな」犬はうっすら笑っていた。

ひとまずストックがなくなりましたので これにて少しお休みいたします。 また書き貯まったら帰ってきます。 ぜひ他の物語も読んでもらえると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。 わんわん