元キリスト教2世が読む『なぜ私だけが苦しむのか:現代のヨブ記』

私が大学生のときに読んで、キリスト教から離れた今も忘れられない本をご紹介します。


パレスチナ情勢が悲惨な情勢になっているとき、ユダヤ教のラビ(アメリカ在住)の著作を紹介することに、ためらいはありました。

私はただ、この方の苦悩への向き合い方が好きなんですよね。

私は信仰があろうがなかろうが、安全なところから言葉を投げつける人の話を聞きたいとは思いません。逆に宗教がもたらす選民意識や、安易な慰めで丸め込もうとせず、逃げずに自分や他者の苦悩と向き合った人の言葉は聴きたいと思います。


1.著者が神に、読者に問いかけたもの

著者自身が、息子さんの難病を通して神との向き合い方に苦悩した人物だけあって、問いかけには迫力がありました。 

ある人は飛行機事故で助かって、私は祈ったから助かったという。でも助からなかった人が祈らなかったかどうか、どうやって分かると言うのか…。

神は善の存在であり、全知全能でもある。
この世界を見たときに、この二つは両立するものなのか。

本は手元にないのに、読んだのは遥か遠い昔なのに、内容が蘇ってきます。


著者はヨブ記を引きながら、話を進めていきますが、神を信じて忍耐すれば最後は祝福されるとは言いません。信仰によって全てが報われるわけではないことを、著者はよく知っています。

※ヨブ記のあらすじは、こちらのサイドがまとまっていて分かりやすかったです。


2.著者が導き出した、苦しむ人の周りのあるべき姿

著者は、ヨブ記を通して、
・苦難のなかにいる人を前に、周りはどうすべきか。
・神とはいかなる存在であるか。

を語ります。

ヨブ記では、主人公のヨブがすさまじい災厄に見舞われたとき、友人たちがやってきます。ヨブのここが良くなかったあそこが良くなかったと言い募るのですが、著者はこう言います。

友人たちはすぐやってきたのはよかった。
ただし、あれこれ言うべきではなかった。

本では、著者の深い智慧のようなものが貫かれていました。それは、人間には分からないことが多いということ。本当は分かっていないのに、決めつけてはいけないということです。
「すぐ駆けつける」「でも、言わない」という思いやりの示し方もあるのだなと…。


3.神は"善"なのか、"全知全能"なのか

そして著者は問い続けます。
神が完全に善意の方で、かつ全知全能であるならば、この世界のありようは何なのかと…。
信仰をもつ人なら、誰しも疑問をもつことではないかと思います。

著者は言います。
神には全知全能であるよりも、善の方であってほしい。
神にも実は力の及ばないことがあるのではないか。
私の神は、人とともに悩む神なのではないか…。

正直、当時の私は沁みました…。
ただその後、私が経験した教会でのあれこれが多すぎて、教会そのものに疑問を持つようになってしまい、信仰そのものも相対化してしまったけれど…。

私自身は、信じない自由さえ尊重してくれれば、信じる人のことは尊重したいです。
(ただし選民意識で目を瞑らず、自分の問題には向き合ってほしいけど…)

そうだな…私は目のまえに苦しんでいる人がいるとして。

信仰にそった話をしたほうがその人が楽になるなら、そういう話をするし、そうでない人にはそうでない話をするという極めていい加減な人間なのです。
ただ人を決めつけて、責め立てて、さらに追い詰めることはしたくないなと思っています。

キリスト教を離れた私ですが、この本が必要な方に届くといいなとも思う。
今日も私は、そんな矛盾を抱えているのでした。


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