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無賃労働と先行投資のはざまに揺られて

 「私、あんな時給では笑いませんよ」

 ある地域活動で出会った大学生が、そう言い放ったことがある。飲食店のアルバイトをしているとのことだったが、終始無愛想な対応をしているのだろう。地域活動の参加中は自然な笑顔なのに。

 貨幣の支払いを伴い、その額に満足できないときは笑顔を封じ、その一方、貨幣の支払いを伴わない地域活動では笑顔を見せる。彼ら彼女らの中では、「賃労働=我慢した時間の対価」と言い換えても成立する。いや、日本の大部分の雇われ人は、お金のために我慢して働いているという感覚は、多かれ少なかれ持ち合わせているだろう。

 額に汗して働いた時間に対する対価──古典派経済学でお馴染みの労働価値説が、我々の資本主義社会にはインストールされている。ただ、あまりにそれが当たり前になってしまっているので、「労働には貨幣の支払いを伴うべき」→「貨幣の支払いを伴わない労働は無駄である」という、必ずしも一致しない読み替えが浸透してしまっているのが現状ではないか。

 だから、無賃労働は無駄であり、常識を脅かす酔狂な行動とみなされる。“タダ働き”は愚か者のお人好しがすることであり、労働には正当な報酬を要求することが、社会的に正しい行為となる。

 一方、地域での活動はそうはいかない。町会にしろ、商店会にしろ、祭礼にしろ、あるいは新たな地域イベントでも、無賃労働が前提である。経費までは出るとしても、労働時間に対する“適正な”人件費は生み出せない。

労働価値を「贈与」する

 かつては地主や大家さんなど地域の名士的な人々が、こうした活動の中心を担っていた。自らの可処分時間や労働を、地域のために惜しまず差し出していた。これは、「労働価値を地域に対して贈与する行為」と言えるだろう。

 街場での活動は、毎日の家事のように、細々とした名もなき仕事の集合体だ。そのいちいちに名前をつけて、見積もりを取って、発注するクライアントは存在しない。贈与が先立たないと、活動を駆動することができないのだ。そして先に差し出し続けられるだけの経済的・時間的余裕に恵まれた者だけが、活動を持続できることになる。一時的に参加できていても、学校を卒業したり、仕事が忙しくなったり、子育てや介護に時間を取られたりするようになると、顔を見せられなくなってしまう。それはそれでいい。

 ところで贈与という行為は、返報性を備えている。

重要なことは、「お返しをしなければ」という「感情」は、与えられた人間の内面に生じる、ということです。「贈与経済」の力点は、「与える側」ではなく、「与えられる側」です。それは、たんなる「感情」ではなく、ほとんど「強制力」と言っていいものです。「与えられる側」の内面に生じる「お返しをしなければならないという『強制力』」です。

 贈与が、時間のずれをもって返礼を要求する性質がある以上、その行為は、差し出す側からは一種の「先行投資」とみなすこともできるだろう。いつか返ってくるであろう貸しを積み立てること、綺麗な言葉で言い換えるなら「徳を積む」。

 金利や返済期限があるわけでもなく、人の間に積み立てられるものであるから、人間関係にあまり変化がないことが条件になる。かといって、たとえば何世代にもわたって土地に固着するような状況では、贈与-受容の関係も固定化してしまい、返済できずに破綻する。案外、都市の中の学区単位ぐらいのスケール感が、移動と定着のバランスが良いような気がしている。

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