博士課程の憂鬱を乗り越えかけて

まだ見ぬ世界へ憧れて、研究の道を志したのは過去の私。

研究の道に入ると、憧れや、これまで評価されてきた成績や、目に見える努力家だけでは済まないなんてこと、分かりきっていたはずなのです。

しかし、理解と体感は別物でした。選んだ研究テーマに仲間はおらず、指導者の指導も仰げないという現実は暗闇のような場所にきた私は、成果を出すことが出来ずに何をすればいいのかさえ分からなくなってしまいました。


昇進や結婚などライフステージを進めていく同級生に「ぴよ子ちゃんは賢いし、自由で羨ましい」「好きなことやってられていいよね~」と言われるほど、距離と孤独を感じながら笑うしかありませんでした。

有能な院生たちがポンポン論文を出しているのを横目に、私は自分の環境を理不尽に感じていました。そして、いつしか私の志は光を失っていました。

1度入った世界を撤退する勇気もなく、論文を書き進められる訳でもなく、宙ぶらりんな状態でいると自分は無価値な人間だと思えました。

私の憂鬱は私を殺そうとはしませんでした。でも、生きようとしなかったのです。何日も部屋に引きこもり、食事もシャワーもままならない状態が続きました。そんなことをしているのに、この世界から私が消えても誰も気にとめないんじゃないかと思うと怖くなったりしたのです。

心の声は「私を見て!」でも、そんな言葉を言える相手も思いつきませんでした。


ネットに吐き出しても、知らない人に愛したフリをしてちやほやしてもらっても、一瞬アドレナリンこそ出せても虚しいだけで、また勝手に傷つくことの繰り返しでした。


私には何も無い。私は何も出来ない。私は必要とされていない。そんな自己否定と満たされない承認欲求に苛まれる中にいると、起きていても水の中にいるように景色が歪んで見えたのです。


そんな、ぼやけた世界の中、私を救ってくれたのは過去の私でした。

過去の私が研究していたテーマと近い内容の研究をしている院生と研究会を作ることになりました。

仲間と居場所を作ることで少し生きる意味を見つけられる気がしました。


日本語教師の非常勤も始めました。過去に資格を取っていたので、社会との接点を持つために活用してみようと思ったのです。


しかし当時、研究会も日本語教師も博士課程という現状から逃げていることだから、こんなことをしていても意味が無い!と、自分を責めていました。


でも、「意味が無い」の意味は何なのでしょう?
博士課程が人生の全てではありません。
それに気がつくのには時間がかかりました。

研究会も日本語教師も自分が今を生きるための糧となっていたはずで、何も無ければ私は歪んだ部屋で引きこもりを続けていたかもしれません。


逃げ道と思っていた世界は、今日も生きていく私を支えてくれる存在でした。
そして、その支えの基盤を作ったのは自分でした。

ずっと走り続けてきて忘れていたけれど、愛に飢えて不安で辛くて寂しい思いをしてきたどうしようもなかった自分を今だから受け入れてあげられるような気がします。

駄目だと思っていた自分が未来の私の救世主になるかもしれません。


一度、志を閉ざしたとはいえ、まだ研究への憧れは失ってはいません。
研究が全てではないけれど、ここで辞めたら後悔をする所まで踏み出してきました。

今、改めて前向きに研究に向き合いたいと思うのです。きっとまた先が見えなくなるかもしれないけれど、そんな時は、過去の自分が築いたものに甘えながら支え合いながら、未来の自分の土台を作りたいと思うのです。

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