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短編『何も気にならなくなる薬』その44


飲み会、そろそろ復活しているところが多くあると思います。
こんな世の中で社会人になった人たちは、おそらく飲み会という文化を知らないので、色々苦労するんだろうなぁーと。
自分のことではないので勝手に大変そうだなと思っている。
自粛を経たことで「飲み会開かなくても良くね?」
みたいな人がチラチラっと現れてくるのではないだろうか。言ってしまえば飲み会を断る大義名分を得た人達は、それを活用して、自分の時間を謳歌している。
その反面、飲み会本来の価値が上がっているような気がする。
誘われることはありがたい。
本心がどうであれ、誘いたくない人は誘いたくないだろうから、その枠ではないのだろうとポジティブに考えている。

本当に飲みたい人達、話したい人、そういうのを厳選している諸先輩方は多くいると思う。
私もいざそっち側になるのだとしたら、気のいい人たちを誘いたい。

イエスマンを引き連れて悦に浸るのは嫌だし、
あと単純に面倒くさくない人がいい。
酒癖が悪くない。
話が愚痴ばかりにならない。
自慢話ばかりじゃない。
いや、そんなことなら誰も誘わないほうがいいのかもしれない。
私がこういう人に誘われたくないと思うときは、私もまた、そういう人にならないように気をつけなくてはいけない。
他人は自分の鏡なのだと改めて思う。

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「弱いものいじめは良くない」とはよく言ったものだが、
「出る杭は打たれる」というくらいなのだから、
やはり不平不満の避雷針になる人というのはいる。
私にはこういう人たちの気持ちは分からないが、よくも悪くも丁度いいサンドバッグなのだと思う。
自分が正しいと信じたいし、また、避雷針になりたくない人達は周りの殆どが白だといえば白と同調する。
結局のところ多数決で負けた人達がそういった避雷針になる。
加害者、被害者という言葉で当てはめるのはいかがかと、結局のところどちらでもないだろうと、どっちもどっちなのだろう。
どちらにも非がある。
そして、どちらにも正義がある。
とはいえ、正義なんて周りの顔色を伺った人たちの総意か、もしくは個人の我儘のどちらかでしかないのだろうが。


美味しいご飯を食べます。