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短編『何も気にならなくなる薬』その145

ダージリン

チームワーク

ヤコブソン器官

ヤコブソン器官とは……
鼻と同じ役割をしている嗅覚器官。人間は退化している。
ヘビ類とトカゲ類ではよく発達していて,鼻よりもむしろ主要な嗅覚器官になっている。これらの爬虫類が頻繁に舌を出し入れするのは,舌の先端に捕らえた空中のにおい物質を口腔内に開いたヤコプソン器官の開口部へ送りこんでいるのである。哺乳類では鼻が主要な嗅覚器官となっていて,ヤコプソン器官は性フェロモンを感受するだけの器官となっている。とのこと。


「お前はほんと、鼻が効くな」
「そうですか?」
「あぁ、お前が目星をつけたところは大体留守だ。仕事が捗る」
「ありがとうございます」
「しかしな、その舌を出すのはあまり形が良くないな」
「あっ、すみません。これ癖でして」
「妙な癖だな、あんまりこういう商売でわかりやすい特徴があるのは良くないんだよ。見た目は変装で変えられるが、癖ばかりは隠せない。この商売を続けたければ気をつけな」
「はい、アニキ」
「また出てる」
「あっ、すみません」
「お前、口が開いてるから舌が出るんだよ」
「んんーんんん」
「いや、喋るときはいいんだよ」
「いや、どうもこの舌を出してると落ち着くというか、息ができるというか」
「なんだお前、鼻で息ができないのか」
「えぇ、生まれつき鼻が駄目でして、物の味も鼻より先に舌で味わいまして」
「それは普通に食べているだけじゃないか。しかしなんだ、それじゃあ蕎麦を食うにしても楽しみも何もないじゃないか」
「いや、匂わないわけじゃないんで、舌をこう出しときまして、引っ込めると匂いがわかるわけで、厠に行くときは口を閉じてれば匂いません」
「それは便利なんだが不便なんだか、とにかく私は仕事をし過ぎだからな、一度身を隠すからお前一人でうまいことやれよ」
「はい、アニキ……なんだよアニキもビビって引っ込んじまった。盗みの仕事はチームワークだって言っていたのに。けれどもこれでオレも一人立ちか、帰ってきたアニキが驚くように早速盗みをしてやろう」
この男、鼻が効くというよりかは舌が効く。
蛇は定期的に舌を出して空気中の成分をヤコブソン器官に運ぶ、そこで初めて周囲の状況を理解することができる。
この男もまた人間にしては珍しく、その器官が発達していた。
匂いでもって部屋の向こうに男がいるとか、女がいるとか、更には何人いるのか、そんなことまでわかる。
特別な人というのは色々と苦労があるもので、人の気が付かない事に気がついてしまう。すると普通の人たちからは疎まれ、仕事を追われる。
そうなると自然と盗みの仕事には変わった奴らが集まる。
「この家は一人いるな。女か。くさいな。寝たきりか」
舌を出したり引っ込めたり。
「あまりこういう家には入りたくないけれど、近頃盗みに入れるところも少ないからな」
「どなたかそこにいるのですか」
「あ、ばれた」
「あの、よろしければ手伝っていただけませんか」
「手伝う?」
「えぇ、見ての通り私は寝たきりですから、身体を拭いてもらいたいのです」
「なんで俺がそんなことを」
「だってあなた泥棒でしょう」
「なんだってそう決めつけて」
「だって、そういう足音がしますもの」
「足音?」
「えぇ、気づかれたくない足音」
「へぇ、耳がいいんだな」
「そのかわり目が見えないんです。なんの音沙汰もなく兄が二日も帰ってこないので、私一人では何もできなくて」
「兄に捨てられたのか?」
「いえ、もしかしたら兄の身に何かあったのかもしれません。兄は用心棒を生業にしていて、帰ってこないことがあればそういうことだと」
「その用心棒の妹が泥棒をうちにあげるのはいいのかい」
「あなたは悪い人ではないと思いましたから」
「そんなことを言われたら調子が狂うなぁ、わかったよ、水を汲んできてやる。そのかわりその兄が帰ってきてもオレを売るなよ」
「恩を仇では返しません」
「殊勝だね」
男が水を汲み上げ、水に浸した手拭いを絞る。
上半身を起こした女の身体は男を欲情させるようなものではなかった。
やせ細った背には肉付きがなく、兄の帰りを待つ身には何も食べていない様子が伺えた。
「お前、何か食べたのか」
「いえ、兄が帰らなければ私は何もできませんので」
「それは可愛そうだな。ちょっとまってろ」
「食事まで用意してもらうわけには」
「ここまでして死なれでもしたら後味が悪いからな」
「でも」
「盗んだお金だよ。だから共犯だ。今日だけは目を瞑りなよ」
「もとより見えません」
「それもそうか。家の中に何かしらあるだろ。少し借りるぞ」
「……兄よりお上手で」
「褒める暇があるならもっと食べなよ」
「ありがとうございます。あなたはとてもお優しいのですね」
「オレも妹がいたんだよ。もういないけどな」
「そうでしたか」
「オレが綺麗事を言わないで早くこの仕事に手を染めてれば、妹は死なずに済んだんだけどな。酷かったよ最後の臭いは」
「さぞ辛かったのですね」
「あんな物はもう見たくはないね。お前の兄とやらが帰ってくるまで面倒を見てやるよ」
「よろしいのですか」
「あぁ、そのかわり他所様の金で飯を食うからな、お前も泥棒の仲間入りだ」
「えぇ、生きるためなら泥棒でもなんでもなりましょう」
「はは、面白いやつだなお前」
それから男は娘の家に寝泊まりをした。
その翌日、形見の品と手紙だけが帰ってきた。
「そうか、そんな事が」
「兄からの手紙ですか」
「あぁ、なんでも大きな仕事が入ったそうだよ。貿易船の用心棒だとか、きっとダージリンだとか紅茶みたいなものを運ぶんじゃないか、なんでも代わりに世話をしてくれる人を呼んでくれるそうだ。何日も待たせて申し訳ないと書いてあるよ。これなら俺の役目も終わりだな」
「どうかその必要はないと兄へお伝え下さい」
「どうして」
「だってあなたは兄が帰ってくるまで面倒を見てくださるのでしょう」
「そうは言ったけれども」
「あなたは字が読めるのですか」
「自慢じゃないが読めるよ」
「そうですか。貴方は私が見えないことを良いことに嘘をつきましたね」
「嘘なんかじゃないよ」
「いいえ、貴方のそれは嘘です。だって兄は無筆ですもの」
「でも、この手紙には確かにそういう匂いがした。紅茶の匂いだ。きっと雇い主がお前の兄と話をしたんだよ」
「そうですか。見えないならいっそ、あなたの言葉を信じたほうが幸せかもしれませんね」
「あぁ、その兄と話をした雇い主がお前のことを迎えに来るそうだよ」
「何処の誰とも知らない人がですか」
「それを言ったらオレもそうだ」
「いいえ、貴方は違います。貴方はきっと側に居てくれる」
「いや、きっとオレなんかといるより幸せになれるはずだ」
押し問答はそれ以上は続かなかった。
沈黙とともに再び夜が更け、翌日、一人の女が使者としてお清の元を訪ねてきた。
「こちらにお清様はいらっしゃいますか」
「あんたが迎えの人か」
「あの貴方は」
「親戚みたいなものだ」
「そうでしたか、他に身寄りはいないと聞いてましたので、あちらにいるのがお清様で」
「あぁ、そうだ。ちなみに私が手紙を読んだ」
「そうでしたか、ではあのことはお伝えになっていないのですね」
「伝えてはないけれども、オレはあんまり嘘が得意じゃない」
「そうでしたか、では上がらせて頂きます。お清様、私の主がお兄様から頼まれまして、あなたの世話をするように言われました。着いてきて頂けますか」
「そうするほかないのですね」
「はい」
それからお清は素直に頷き、使者に連れられて家を後にした。
「おい、兄貴分が戻ったのにアイツは会いにも来ない一体何処に行ったんだ?」
「兄貴、知らないんですか、あいつなんでも人攫いをしたそうですよ。今、指名手配になってます」
「指名手配?どうしてそれがあいつだってわかるんだ」
「見てくださいよこのビラ、舌を出してるのが特徴だって書いてあるんですよ」


美味しいご飯を食べます。