子供から大人へ。(水星の魔女 感想)
2022年の10月2日から始まった令和のガンダム最新作「水星の魔女」が、
2023年の1月8日の第12話で、第一クールの最終回を迎えた。次回は同年4月から。
女性主人公であり学園ものであるという、従来のガンダム作品とは一線を画した作品として、放送開始当初からTwitterトレンドの上位を関連ワードで埋め尽くすほどの話題作。
しかし前評判からは想像もつかないような物語が、放送開始前のプロローグには描かれていた。
大人達に踊らされる子供達
本編開始前のプロローグの内容は学園ものではなく、学園に主人公のスレッタが入学する経緯を示唆するものだった。
そこに描かれていたのは大人達の世界。
今作のガンダムの技術が元々宇宙医療として注目されており、それが哀しいかな兵器へと転用され真価を発揮してしまうことで、それを良しとしない勢力によって粛清対象と見なされてしまうという政治劇でもある。
このプロローグをもって、本放送の第一話で何故スレッタはガンダムエアリアルをもって入学するのか。
何故学園長がプロローグの悲劇を起こしたデリングなのかという大人達の思惑が子供達を通じて滲み出てくるというのが「水星の魔女」の大きな特徴だと言える。
当然ながら思春期真っ只中の彼ら彼女らの学園生活はいたって普通の(決闘などは抜きにして)ほのぼのとしたもの。
この作品は強いて言えば、シリアスで大人向けの物語と子供たちの熱い友情あるいは恋愛、部活動ものという2つの作品が同時に進行していっていると言った方がいいかもしれない。
第一話から無自覚の悪意
第一話から始まる学園生活は、一見すると平和そうに見えるが、
10代半ばの少年少女らに兵器運用ならびにそれらを利用したビジネスの勉強を目的とした学園というディストピア世界そのものを表現している。
更にはそこに敷かれた露骨なまでの家父長制によって、いたいけな子供たちは自ら考えることもせずに大人達が敷いたルールのもとで学園生活を送っているという状況。
第一話ではライバルとも言えるキャラクターの「グエル・ジェターク」の口から、ヒロインの「ミオリネ・レンブラン」をトロフィーだと発している。
彼ら彼女らは無自覚に戦争準備のための勉強をさせられていると言ってもいい。
しかしながら、この第一話から第三話あたりまではこの学園の外、すなわちここまで極端な学園内情を描くにたるこの世界の現状というものを見せない。
第一話を観ただけでは、この学園でやっていることがいかに醜悪なものであるかということにキャラクターも視聴者も気づかない。
ダブスタが必要な大人の世界
第二話ではミオリネの実の父である「デリング・レンブラン」に対する「ダブスタ糞親父」が話題になったが、
プロローグを観た人間からすれば、デリングが当時ガンダムに対して生命倫理を理由にしてガンダムを開発していたヴァナディース機関を襲撃させた事実を鑑みれば、デリングが管理している学園内でのガンダムの使用に拒否反応を示すのは当然の対応だった言える。
しかし幼い子供達(ミオリネ)にとってはそういった理由は知る由もない。
第七話でミオリネは自らの年代を「ガンダムを知らない世代」と称しており、
学園が戦争を土台にした勉強をしていることに輪をかけて、強力無比なガンダムというものがどういったものなのか知らない。
加えて兵器開発競争においてガンダムを開発しないという理由は成り立たないという実情がつきまとう。
第五話では傘下のペイル社製のガンダム・ファラクトが登場しており、更には主人公「スレッタ・マーキュリー」の母である「プロスペラ」とデリングが結託している事実まで判明する。
ガンダムを開発する、しないといった問答は、そのまま現実世界の核兵器にも通じる。
互いに核兵器を持ち、争いになる状況そのものを生み出さないという抑止力という名目の下で、今尚核兵器は存在している。
廃絶を宣言しながら大量に保有し手放さない現実。理想だけを唱える子供達には到底理解できない世界がそこにある。
消えることのない復讐心
現実世界同様、格差社会からなる反乱ならびにテロがこの作品にもあり、
その象徴的な話になったのが第四話、第五話、第六話、そして第十一話。
第四話では通称「チュチュ」の生い立ちを描きながら、それに対する復讐心を描き出し、
それが第五話と第六話で、貧困からの脱却と悲劇的な過去からなる妬みおよびその復讐を抱えるペイル社のパイロット「エラン・ケレス」によって極大化する。
この4つの物語はグラデーションのように次第に大きな事件へと発展し、第十一話ではついに組織的武力行使が起きてしまう。
物語の起点となるのがスレッタの母親プロスペラによる復讐であるため、必然的に様々な境遇からなる復讐の形を描くのは当然と言えば当然だが、
プロスペラに関しては直接的には手を下さない形の復讐を敢行しようとしていることが大きな違い。
そしてその駒として使われているスレッタという構図。
仮に、スレッタが自我を確立し、プロスペラに反旗を掲げるような事態になった場合、銃口を母親と言える存在に向けることが出来るのかどうか。
エランや地球の魔女たちはスレッタの未来の姿と言えるかもしれない。
ようこそ。大人達の世界へ
第七話でまさかの「株式会社ガンダム」というネーミングで学生でありながら社会進出することになったミオリネ達を皮切りに、
第十話で会社経営に勤しむミオリネと、いまだ学生気分(というより学生)のスレッタのすれ違いから、徐々に大人達の論理蔓延る世界へと足を踏み入れ始めた。
それは良く言えば大人の階段。悪く言えば汚れ始めたとも。
第1クール最終話である第十二話にて、襲撃を敢行した反スペーシアンの「フォルドの夜明け」によって、子供たちは自分たちが置かれている立場が世界から忌み嫌われている存在であることをその身をもって味わうことになる。
特にグエルが陥った状況、ならびにその言動は、それまでの彼からは到底想像がつかないほどの弱々しいものであり、それまで学園で経験してきたものが全てママゴトだったことを痛感させられる。
ミオリネとその父デリングの会話からも、これまでの一方的な嫌悪感からくる言動とは一線を画した形として、ミオリネの知識不足が露呈した形(ノーマルスーツ=身を守るための装備)となっており、
何も知らないが故に理想を語る子供を強調するものとなった。
そもそも医療目的としてヴァナディース機関の意志を継ぐ形でガンダムを使うという経営を始めたミオリネだが、
先述したように兵器開発競争において革新的技術は必ずしも意図した方向に使われるわけではないという想像まで及んでいない時点で、ミオリネは現実を知らなすぎるところが多分にある。
それを思い知らしめるかのように、スレッタはミオリネの目前で凄惨な現場を見せつけることになる。
第十話から会社経営という形でいち早く大人の世界へと歩を進めたが故に学生のままのスレッタとすれ違い、
だが第十一話で和解し、堅い信頼関係を結ぶことに成功したが、今度はスレッタがある種の大人の形を身につける形となった。
一方的に戦闘状況下に陥り、そこから打開するための力をスレッタはガンダムという形で保有している。
その状況を母親であるプロスペラに焚きつけられ、新たなガンダムとなったエアリアルで迎え撃ち見事撃退に成功するというのは、戦争状態では至極普通の対処であると言わざる得ない。
ミオリネの眼前に立ち塞がった危機を払いのけるという無慈悲な判断もまた、残念ながら正当化せざる得ない。
だが問題なのは、スレッタ自身がそのことの意味を考えることを放棄してしまったことだ。
第八話にて、プロスぺラのガンドアームによる右腕の義手を差し出され「怖い?」と質問されたとき、スレッタはなにひとつ疑念を浮かべずに首を横に振った。
プロローグで示されていたように、義手や義足といった宇宙環境に人類が適応するように考えられたガンド技術の果てがガンダムという兵器である。
スレッタは兵器が与える恐怖というものを知らない。
エアリアルが兵器ではなく家族と思っている第一話から発していた言葉が、ここで無自覚な形で再現したことになる。
「ガンダム」にいかに抗うか
この作品の初出となるプロローグの最後は若きデリングの言葉でこう締めくくられている。
ガンダムという作品は初代の時点から戦争という題材にしておきながら、それをエンタメとして表現して見せていた。
勿論それは別に悪いことではないし、反戦反核といった思想を混ぜないといけないというわけではない。
むしろガンダムの場合、その状況、その環境に陥った人間ドラマに焦点を当てることで必然的に反戦的に見えるというものであったとしたほうが近い。
(原作である富野由悠季監督は高畑勲監督のもとで「アルプスの少女ハイジ」に参加していたことも大きい)
しかしながらガンダムという作品は玩具会社との密接な関係をもって成り立つコンテンツとして長らく愛され、兵器であるガンダムが活躍すればするほど玩具が売れるということで、戦争をエンタメのひとつであるとして消費してきた歴史がある。
1999年に放送された「∀ガンダム」に、今回の第十二話の裏返しのようなシーンが存在する。
それは主人公ロラン(女装)が悪漢をガンダムを用いて捕まえようとするシーンで、一度は捕縛に成功するがガンダムの指の間から逃げ出してしまい、そのことを指摘されたときに言った台詞。
「これ以上強くすると握りつぶしてしまいます」
ロランというキャラクターは若いながらモビルスーツ乗りとして兵器であるガンダム他、戦争状況下における各陣営の対応などを考えている非常に大人びた人物で、ガンダムという強大な存在が持つ政治的意義を考えたうえでの平和的解決を模索する。
その一端を見せたシーンとも言えるこれは、大人だからこそ出来る対応だと言える。
そういう意味ではスレッタはまだそのことを理解していない子供のままなうえ、「∀ガンダム」同様、スレッタのエアリアルもまた強力であるが、
コントロールが不完全な者によって制御されているガンダムという極めて危険な存在になっていると言える。
しかしプロスペラによって焚きつけられたスレッタがエアリアルに乗り、戦闘をする名目が”誰かを守る事”に終始している点は、ガンダムに乗って戦う理由としては十分なものであると同時に、ガンダムをエンタメとして消費するための名目としても完璧なものである。
しかしそれが「人殺し」の一環であるということをミオリネを通じて描く。
「∀ガンダム」は、徹底的に戦闘を避けるというロランの方向性によって、ガンダムが兵器であることを思い出させてくれる作品であったが、
「水星の魔女」の場合、ガンダムを知らない世代(ミオリネ)が兵器としてのガンダムの凄惨な活躍を見せつけることで思い出させようとしている。
今回の「水星の魔女」はガンダムという枠組みでありながら、これまでのガンダムが棚に上げて見て見ぬふりをしてきた人殺しをカッコいいと視聴者が感じることに正面からぶつかっていこうとしているかもしれない。
今後、更なる悲劇が起きそうな予感がするが、果たして・・・。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?