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今のゲームと昔のゲーム(2)キティちゃんに口がない理由

RPGはどう変わったか?

今うちの息子がやっているゲームは、主にSwitchで『スプラトゥーン2』『あつまれどうぶつの森』『マインクラフト』『大乱闘!スマッシュブラザーズ』などである。

基本的に勉強さえしていれば好きなゲームをして良いのだが、ひとつだけゲームについて課題を出している。

それは、「昔のドラクエをやれ」ということ。

昔のと言っても、オールドドラクエのエッセンスを残しつつ遊びやすくなっているスーファミ時代の『5』『6』である。これらのカートリッジを大阪日本橋で調達して、互換機である『レトロフリーク』に差し込んで遊ばせている。

ゲームのための時間の一部を使ってドラクエをクリアしろというのが課題である。

なぜわざわざそんなことをするのか。

それは今のドラクエが%#F)"&$《自主規制》だからである。

その理由はブログの方に書いてあるが、長大で、内容も少し過激なため、多分今後もnoteに移植することはないと思う。

興味のある方は読んで頂きたいが、ファンの人は気分を害するだけなのでお勧めはしない。


ドラクエXIの何がダメ?

要点をピックアップする。

・MOBには予め見た目で重要な情報を持っているかどうかの印がついていて、さらには会話ができないMOBまでいる。これは全てのMOBにセリフがあったかつてのドラクエから明らかに退化した点であり、「情報探索」という楽しみを奪っただけでなく、「堀井節」の価値を自ら消失させてしまっている。
意味不明のジャンプができるようになったが、移動は3次元どころか、マップの構造上「行くか戻るか」の1次元的なもの。次の目的地はピンで示されているため、探す必要もない。シンボルエンカウントでかつ馬も使えるため、敵に一切遭遇せず無傷のまま新しい土地へたどり着けてしまう。かつてのドラクエにあった、広大な世界を旅しているという開放感もなければ、いつ死ぬかわからないという緊張感もない。
・ストーリー重視のために自由度が低く、誰がやっても似たようなスペックのキャラが出来上がってしまう。また、昔の馬車システムのように、状況によってメンバーを選抜するようなこともないので、緊張感のないダラダラしたパーティになる。
・ストーリーに小さな進展があるたび、あるいはサブクエストをクリアする度、誰かよく分からない人から褒められる(ゲーム内トロフィーシステム)。この見えないガイド役が常に付きまとっているおかげで、世界への没入感は著しく低下することになる。
・人口の分厚いちょうど我々世代に向けた、懐古ネタに反吐が出そうになる。少なくとも新作は新規のプレイヤー、つまり子供たちをターゲットにすべきだり、オヤジの懐古趣味に子供を巻き込むべきではない。
・全体をザックリ評価すると、「頭を全く使わずにクリアできてしまうバカゲー」である。


ゲームは「プレイする」ものから「観賞する」ものになったのか

かつてプレステ1で『ファイナルファンタジーVII』が発売され、初めてプレイした際は、
「嗚呼…FFも『プレイする』コンテンツから『鑑賞する』コンテンツに成り下がってしまった…」
と悲嘆にくれ、1週間泣き明かした。

しかし今のドラクエXIからすれば、十分遊ぶに足る作品だったと言えるかもしれない。ただし、世界観が合わないため、やはり自分には魅力の薄い作品ではあったが。


『ゼルダの伝説BotW』『スプラトゥーン2』『ピクミン3』『メタルギアソリッドV・TPP』等私が感動するレベルで面白い現代的ゲームはたくさんあり、FFとドラクエシリーズだけでゲームの全てを語れるものではない。

が、FF・ドラクエシリーズはゲーム界をけん引する超大作シリーズではあり、特にドラクエのこの変化は今日のゲーム文化を象徴するものだと言える。

「さあ、ご飯ですよーアーンしてー」
「今日は水曜日なのでお風呂ですよー。昨日?入ってませんよー♪」
「右足ちゃんと出ましたね。次は左足、せーの!」

と老人介護施設でリハビリでも受けているかのようなプレイ感覚のドラクエ。それでも感動して涙したという人は多く、非常に優秀な売り上げ成績を記録したということは、もうそういう文化になってしまったのである。


だから私は息子にオールドドラクエをやらせる

昔のドラクエは、情報を「足で稼ぐ」必要があった。街の人からヒントを聞き出し、次の攻略法を得なければならなかった。そこには今では必要とされないリテラシーが要求されたのである。

「ダレダレに話しかけろ」とも言われない、「次はドコドコの城へ行こう!」とも支持されない、誰かの要求通りアイテムを調達してきても「『妻のご機嫌をなおして!』クリア♪」などと褒めてもくれない。

全てはあくまでその世界の内側で話が進み、何をやるべきか、何を達成したかは自分で評価しなければならない。その分、世界に没入できる。

そういう体験をさせたいからこそ、私は息子にあえて古いドラクエをやらせているのである。

そしてその役割はドラクエでなければいけない。鳥山明による素晴らしい絵とすぎやまこういちによる素晴らしい音楽、そして何より、堀井雄二による、(少なくとも3以降は)普通の観察力さえあれば攻略法なしでクリアできる、練りに練られたシナリオと謎解きが秀逸だからだ。


今のゲームは右脳を使わなくなった?

と、ドラクエのことはこのくらいにして、ゲームの大きな流れというのは、「想像力を使わないようになっている」ということだと思う。

ファミコンやそれ以前の時代、真っ黒な画面にランダムにドットを並べて「はい、宇宙空間です」と言われりゃ、それが誰にとっても宇宙空間だったのである。

これは『トルネコの不思議なダンジョン』等でお馴染みのローグライクゲームの元祖、『ROGUE』である。マップからアイテムから敵キャラまで全てが文字で表現されている。

このようなグラフィック(と言って良いのか?)でも、当時のマイコン少年たちは夢中で遊んだのである。


ファミコンのドラクエにはどのキャラクターにも表情がない。表情が表現されていないからこそ我々は右脳を使ってそれを補完する。

キティちゃんに口がないのは、口を描いてしまうと表情が特定されてしまうからだそうだ。楽しい時には楽しそうに、悲しい時にはその悲しみに共感してくれるキャラクターにするためには、口を描いてはいけないのである。そして半世紀近い歴史を持つキティちゃんは、いまだに口がない。


ゲームだけが不可逆的な進化をする

ゲームは違うのだ。その時、「表現力がないことが良かった」ということも、ハードが進化して表現できてしまう以上、表現しなくてはいけないというのがゲームなのである。

結果、我々は見たいとも思っていないキャラクターの表情を見なければいけなくなった。


ゲームの歴史が特殊なのは、こういう不可逆的な変化をするところだ。

これが小説なら?あるいはラジオなら?ラジオという技術ができたらすべてはラジオドラマになって小説がなくなるなんてことはない。テレビが開発されたからラジオがなくなるわけではない。映画が作られても小説を読む人は読むの。

しかしゲームは、16ビットのハードができたら、8ビットのハードは用済みである。ポリゴンで3Dのゲームが作れるようになったらスプライトによる2D技術はもう要らない。キャラクターに声を載せることができて、高精細な画像技術で表情を表現できるようになったら、表情を描かないという選択肢はなくなってしまうのである。


プレイヤーの分身である主人公はどこに?

結果、ゲームの主人公キャラクターは、「プレイヤーの分身」という性質を大きく失いつつある。

メタルギアを例に取ると、私は「ソリッド」がつかない元祖からのファンなのだが、昔のMSX2というパソコンで発売された第一作においては、主人公ソリッド・スネークが喋ったのはオープニングとエンディングだけだったと記憶している。ところが今のスネークは、どんだけ喋んねん!?というくらい饒舌だ。

だからと言って今のMGSが嫌いなわけではない。それどころか『4』を除いて全て傑作だと思っている。

が、やはりスネークの「プレイヤーの分身」という側面は大きく失われてはいるのだ。いつしかスネークには具体的な容姿と声、そして独自のキャラクターを持つようになった。プレイヤーはそのスネークを含めて客観視する立場になってしまい、プレイヤー=スネークではなくなってしまったのである。

今でも強く「プレイヤーの分身性」を残しているのは、ゼルダシリーズのリンクだろう。一言も喋らないのはもちろん、イベントムービーも非常に少ないゼルダにおいて、リンクは特定の人格を持たない。だからリンク=自分という等式が成り立つ。


だからと言ってどうしろとは言えない。

ゲームは産業であり、お客がいて金を出して買ってくれるからこそ成り立つ文化だ。非営利、つまりフリーソフトや採算を度外視した格安作品では限界がある。

小説と映画は競合しないが、残念ながら古いゲームと新しいゲームは同じ棚に並べられて比較される。好き好んで地味な方を選ぶ人はいない。

が、それでも、大作を作るチームとは別にフリーゲームやインディーズゲームを開発する人達はたくさんいる。インディーズは1作1000円前後で販売されるものも多い。

そういった人材をある程度集結させて、例えばドラクエなら、ナンバリングタイトルとは別に「お前たち、ドラクエのコンテンツ使ってスーファミ準拠の新作作って、2500円で採算の合う商売してみろ」と言ったら、ひょっとしたらできなくはないのでは?なんて思っちゃうの。





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