【通史】平安時代〈12〉藤原北家による摂関政治の全盛期(道長・頼通の時代)
◯「安和の変」以降、藤原北家に対抗する勢力はいなくなった代わりに、藤原北家の内部において激しい権力争いが繰り広げられていくこととなります。すなわち、藤原氏北家のトップ(氏の長者)争いです。
◯この一族内での政争を勝ち抜き、藤原北家による摂関政治の全盛期においてその権力の頂点に達したのが藤原道長とその子頼通です。道長は彰子、妍子、威子、嬉子と四人の娘を天皇に嫁がせ、外戚関係を築き上げました。
◯道長の長女として生まれた彰子は、999年、弱冠12歳にして8歳年上の一条天皇に嫁ぎ、1008年、20歳のときに長男である敦成親王(のちの後一条天皇)を、1009年に次男敦良親王(のちの後朱雀天皇)を産みます。
◯そして、道長は後一条天皇に威子を、後朱雀天皇に嬉子を嫁がせます。威子と嬉子は母である彰子の妹ですので、後一条天皇、後朱雀天皇から見たら叔母です。あまりうまく想像できない方に「サザエさん」を例に説明すると、ワカメがタラちゃんと結婚するのと同じです。
◯後一条天皇に嫁いだ威子は皇子を出産することができませんでしたが、後朱雀天皇に嫁いだ嬉子は親仁親王(のちの後冷泉天皇)を産みます。
*ただし、嬉子は出産の2日後にわずか19歳でこの世を去ってしまいます。
◯なお、妍子は冷泉天皇の子である三条天皇に嫁ぎますが、皇子を出産することができませんでした。
◯さて、こうして道長は娘たちが産んだ後一条天皇(第68代)、後朱雀天皇(第69代)、後冷泉天皇(第70代)の三代天皇の外祖父として、約30年間にわたって最高権力者として政治の実権を握り続けます。絶頂期にあった道長が「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている)という歌を詠んだことはあまりに有名です。
◯しかし、道長自身は摂政に就任したことが1年間あるだけで、関白にいたっては一度も経験していません。道長が摂政を務めたのは、1016年、後一条天皇が即位したときです。即位時、後一条天皇は9歳だったため、外祖父である藤原道長が摂政として政務を代行しました。しかし、翌年には長男の藤原頼通に摂政を譲っています。
◯道長は摂政・関白の座よりも、他の二つの地位に強いこだわりを持っていました。一つが、太政官(律令制度における国政の最高官庁)の最高責任者である「左大臣」です。左大臣は一上(あるいは上卿)といって、陣定の首席(一番目の席次)を務めます。陣定とは財政や外交、人事など、国の重要な議題を審議し、天皇や摂政・関白に意見を奏上する機関です。左大臣、右大臣を筆頭に23人の貴族が参加資格を持っています。要は、太政官の最高幹部たちが出席する国政の最高決定機関といえます。左大臣が摂政・関白を兼任することも可能ですが、摂政・関白は陣定に出席できません。摂政・関白は陣定で出た意見の報告を受ける立場です。左大臣が摂政・関白を兼任した場合は、次の席次である右大臣が「一上」として陣定を取り仕切ることになります。政務に対する発言権を固辞したい道長としては、摂政・関白になるより左大臣として政治の最前線で影響力を発揮したかったというわけです。
◯そして、道長が強いこだわりを持ったもう一つの地位が、「内覧」です。内覧とは天皇に奏上される文書や天皇から下される文書に先に目を通す権限、あるいはその権限をもった人のことをいいます。摂政・関白はもちろん「内覧」の権限を持っていますが、摂政・関白にならなくとも内覧の宣旨を受けた公卿には「内覧」の権限が与えられました。過去の前例でいえば、醍醐天皇の治世で、左大臣の藤原時平と右大臣の菅原道真に「内覧」の権限が与えられました。また、藤原伊周は父で関白の道隆が病の間、内覧の宣旨を受けました。内覧の権限を持つということは摂政・関白に準じる権限を持つということに等しいのです。
◯藤原道長は長男の頼通を関白につけ、自身は左大臣と内覧を兼務した「内覧左大臣」となるという体制を構築します。このような体制の方が、自分にとって有利に政治を進められると判断したのです。
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