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【通史】平安時代〈13〉藤原北家による摂関政治の終焉(後三条天皇の登場)

藤原道長の晩年

◯藤原道長(966~1027)の長男として生まれた藤原頼通は、1017年、26歳の時に藤原北家の氏長者後一条天皇の摂政を道長から譲られ(その2年後に関白に就任)、絶大な権力を継承します。道長自身は名誉職である太政大臣に就任し、後見的立場から頼通の摂政・関白の職務をサポートします。こうして自身の一族による永久政権を夢見る道長によって後継体制が固められていきます。全てが順風満帆でした。

◯さらに翌1018年、威子後一条天皇の皇后としたことで、一家立三后(彰子・妍子・威子)という前代未聞の偉業を成し遂げた道長は、その立后の儀の後に開かれた酒宴の席で「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と傲慢な歌を詠み、この世の栄華を極めます。

◯しかし、こうして比類ない権力を手に入れ、藤原氏の全盛期を築き上げた道長でしたが病には勝てません。望月(満月)は次第に欠けていくことになります。実は、この歌を詠んだ時には、すでに道長の体は病に蝕まれていたのです。道長自身の手による「御堂関白記」に書き残された病状の記述(喉が乾いて大量に水を飲む・痩せてきて体力がなくなった・目が見えなくなった・背中に腫れ物ができた)から、おそらく糖尿病であったと推測されています。

◯日に日に体が悪くなっていく道長は、おそらく自らの命も長くないと考えたのでしょう。1019年、54歳で出家し、来世に旅立つ準備を始めます。このあたりの行動を理解するためには、仏教の世界観についての知識が必要になりますので少し解説しておきます。

仏教の世界観

◯仏教には「輪廻」(六道輪廻)という思想があります。人間をはじめとしたすべての生き物は、死んだらそれで終わりではなく、再び別の人間や生き物に生まれ変わり、いつまでもそれを繰り返すという考えです。そして生まれ変わる先には六つの世界があり、これを「六道」と呼びます。下から「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人間道」「天道」であり、この生命の輪を永遠に廻り続けるというのです。これが「輪廻」の思想です。

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◯そしてもう一つ、仏教には「宿世」という思想があります。「前世」「現世」「来世」三世の間には不思議な力が宿っていて、すべてが因果でつながっているとする考えです。つまり、現世で起きている幸福は、前世で行った善行が結果となって表れているのであり、反対に現世で起きている不幸は前世で行った悪行が結果となって表れていると考えるわけです。すると、来世で起きる幸福や不幸もまた、現世でどのような善行や悪行を働いたかによって決まるということになります。

◯誰しもが少しでも幸福な来世に生まれ変わりたいと考えるのが普通ですが、どの世界に生まれ変わっても生老病死の苦しみがあることに変わりはなく、生まれ変わるということは生きる苦しみも存在するということを意味します。

◯しかし、仏教の教えを実践し、悟りを開くことができれば、「解脱」といって、輪廻から抜け出すことができるとされます。「解脱」できればもう二度と生まれ変わることはなく、「極楽浄土」という阿弥陀仏が待つ世界に行くことができ、これを「極楽往生」といいます。仏教の究極の目的はこの解脱であり、どうすれば悟りを開いて輪廻の世界から解脱できるかという教えを説くのが仏教なのです。

浄土信仰の流行

◯平安時代初期は現世利益を追求する真言宗(空海)や天台宗(最澄)が流行しましたが、末法思想が流行した平安時代中期の当時は「浄土教」が貴族の信仰を集めるようになりました。詳しくは次回の記事に譲りますが、簡単に言えば、日々「南無阿弥陀仏」と唱え続けることで、阿弥陀仏が待つ「極楽浄土」に行けるとする教えです。「南無」とは「絶対的な信仰を表すために唱える語」であり、「南無」の後に信仰対象としての仏の名前を続けます。つまり、「南無阿弥陀仏」とは、「私は阿弥陀仏に帰依いたします」という意味です。

◯さて、道長の出家に話を戻すと、日に日に病状が悪化していくことに、道長は「これは自分が蹴落とした貴族たちの怨霊によるものだ」と思うようになります。平安時代の社会の根底には「怨霊信仰」があり、不吉なことが起こると怨霊の祟りだと信じられました。

*ちなみに、紫式部の『源氏物語』は藤原氏が追い落とした天皇家と源氏の怨みを鎮めるために書かせた鎮魂の物語であるといわれます。平家物語、太平記にしても同じ鎮魂のために書かれた物語です。

◯仏教の「宿世」「輪廻」の思想からすると、このまま怨霊の祟りによって死んでしまっては、来世によりよい世界に生まれ変わることができません。向かうところ敵なしの状態だった天下の道長といえど、やはり来世の幸せのために生前に功徳(善行)を積んでおきたいわけです。仏教における善い行いというのは、

①仏教の戒律を守ること
②写経・読経
③仏像や寺院の建立
④出家して仏道修行を積む

などが挙げられます。

◯そこで、出家した道長は、怨霊退散のお祓いを受けつつ、自身も「浄土教」に深く帰依していたことから、自邸の土御門邸の東隣に「九体阿弥陀堂」を建立し、ここを「無量寿院」と命名します。阿弥陀仏の異称を「無量寿仏」ということが由来です。「九体阿弥陀堂」というのは、その名のとおり、堂内に金色の阿弥陀像が9体を安置した建造物で、この時代に多く造営されました。

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◯これは、九品浄土といって、極楽浄土に行く場合も生前の行いによって9段階のランク付けがされており、それを9体の阿弥陀仏で表現したわけです。道長は、どの極楽浄土からお迎えが来てもいいようにと願いました。さらに、これ以降も金堂や五大堂などが次々と造営されて巨大な寺院へと成長していき、法成寺と命名されます。

法成寺は摂関期最大級の寺院で、これを建立した道長は「御堂関白」と呼ばれました(御堂とは仏像を安置した堂のこと。道長自身は関白の経験はありませんが、それに匹敵する権力を有したことからこう呼ばれました)。
*ただし、1058年に全焼してしまい、現在は法成寺があったことを示す石標だけが残っています。

『御堂関白記』からは、道長が浄土信仰に傾倒していく様子が読み取れますが、死期を悟った道長は1019年、54歳で出家して以降、この法成寺で極楽浄土を願いながら隠居し、ひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えながら過ごしました。ただし、道長は出家後も頼通に指示を与えて政治的影響力を持ち続けました。

治安元年(1021)九月一日、念仏十一万篇、同二日、念仏十五万篇、三日、念仏十四万篇、四日、念仏十三万篇、五日、念仏十七万篇。

◯これは、1021年、道長56歳の時の日記です。5日間で50万回以上も念仏を唱えたというのです。実際にそれだけの回数を唱えたのかどうかは別として、この時代がいかに浄土信仰に支配されていたかということがわかります。

◯さて、こうして出家から8年後の1027年、道長は62歳で生涯の幕を閉じます。最期は阿弥陀堂に床を敷き、阿弥陀如来像の手と自分の手を紐で結び、多くの高僧たちが唱える荘重な念仏に包まれながら息を引き取ったといいます。

後継者・頼通の苦悩  

1027年、政界から引退後も朝廷に絶大な影響力を持ち続けた父・道長を失った嫡男・頼通は、亡き父が築き上げてきた摂関政治を維持するために娘を必要としていました。

◯摂関政治というのは「娘を天皇に嫁がせて皇子を産ませる」ことで外戚として政治を支配するという仕組みですから、何をおいても重要なことは、娘を授かることです。しかし、頼通には娘が生まれませんでした。

1036年、自身が関白を務めてきた後一条天皇(母:彰子)が亡くなります。後一条天皇には皇子が生まれなかったので、弟の後朱雀天皇(母:彰子)が即位します。後朱雀天皇頼通から見たらにあたるので、引き続き頼通外戚(外伯父)として関白を務めます。

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◯摂関政治を維持するためには、この後朱雀天皇に娘を嫁がせなければなりません。しかし、この時点で娘のいない頼通としては、養子を取る以外に道はありません。そこで、妻の妹で皇族の嫄子養女に迎え、1037年に後朱雀天皇の妃にします。しかし、嫄子は皇子を生むことはありませんでした。しかも入内からわずか2年後の1039年に23歳という若さで早世してしまいます。

1045年後朱雀天皇が亡くなると、第1皇子の親仁親王(母:嬉子)が後冷泉天皇として即位します。後冷泉天皇頼通から見たらやはりにあたるので、引き続き頼通外戚(外伯父)として関白を務めます。

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◯ところで、後朱雀天皇には第2皇子の尊仁親王がいましたので、後冷泉天皇の即位と同時に尊仁親王皇太子となります。

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◯しかし、上の系譜を確認すると分かるように、尊仁親王(後三条天皇)は藤原氏とは外戚関係(母方が藤原氏出身であること)にない皇太子です。もし尊仁親王が天皇になると、外祖父は三条天皇になります。このままでは父・道長が築き上げた摂関政治が維持できなくなります。これは頼通にとって脅威でした。この危機的状況を打開するには、後冷泉天皇に娘を嫁がせ、皇子を産ませ、尊仁親王(後三条天皇)を廃太子させる以外にありません。

◯実は、娘づくりに命を賭けていた頼通は、正妻とは別に妻をもらい、1036年にその妻との間に待望の娘・寛子を誕生させていました。1050年、この寛子に皇子誕生の命運を賭け、後冷泉天皇に入内させます。これで皇子が生まれなければ万事休す。しかし、ついに子供に恵まれることはありませんでした。

藤原北家を外戚としない後三条天皇の登場

頼通は、最後の頼みの綱である寛子を後冷泉天皇に嫁がせましたが、二人は子宝に恵まれませんでした。そして1068年、後冷泉天皇が崩御します。

◯これでついに、頼通が恐れていた事態が現実のものとなりました。尊仁親王の即位、後三条天皇(在位1068~1073)の登場です。宇多天皇(*藤原北家を外戚としない)以来、170年ぶりに藤原北家を外戚としない天皇が登場したことで、藤原北家による摂関政治が終焉することになりました。

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後一条天皇以降、後朱雀天皇後冷泉天皇と3代の天皇に渡って50年間、摂政・関白の地位を保持してきた頼通ですが、後三条天皇の母が藤原氏の出自ではなかった尊仁親王を冷遇してきましたので(歴代の東宮が継承する秘剣「壷切御剣」を渡さないなどの嫌がらせもしました)、関白を辞任して宇治に隠遁してしまいました。

後三条天皇は即位時すでに34歳で関白を必要としませんでしたが、頼通の後任の関白として頼通の同母弟の教通を任じました。これは、教通が71歳と高齢であまり影響がなかったのと、まだ政界に強い影響力をもつ藤原北家を無碍に扱っては何をされるかわからないと考えたからかもしれません。

◯それでも、藤原氏と外戚関係のない後三条天皇は、藤原氏の威権に縛られない積極的な天皇親政(天皇自ら政治を取り仕切ること)を推進することができました。天皇親政は村上天皇以来100年ぶりのことです。後三条天皇大江匡房藤原実政などの中級貴族を積極的に登用し、様々な改革を進めていくことになります。後三条天皇の治績で特に有名なものが「荘園整理事業」です。

「延久の荘園整理令」

◯当時は皇室の財政も逼迫していたため、大江匡房の建議によって「延久の荘園整理令」を発布します(1069年)。目的は藤原家が持つ荘園を一括管理することで藤原家の経済基盤の縮小を図り、皇室の経済基盤の強化することです。

◯これまでの荘園整理令がなぜ効果がなかったのかというと、最大の荘園所有者である藤原北家を中心とした有力貴族と癒着した国司に、荘園の不正取り締まりの実務を担わせていたからです。

◯そこで、後三条天皇は摂関家やその摂関家と癒着している国司と切り離した天皇直属の第三者機関を設置し、そこに違法荘園の取り締まりを行なわせるという方法を取ります。その第三者機関として設置されたのが「記録荘園券契所」です。また、そこで働く人々の人事にも配慮し、藤原氏などとあまり縁のない官僚たちが抜擢されました。

◯こうして、合法な荘園であることを示す証拠書類のない荘園を次々と摘発し、没収していきます。その結果、摂関家である藤原氏の荘園の多くが朝廷に没収されることとなり、取り上げた土地は天皇が所有する荘園として没収され(天皇領荘園)、藤原氏の経済的基盤は弱体化します。後三条天皇による「延久の荘園整理令」は従来の整理令とは比べものにならないほどの成果をあげることに成功したのです。

◯また、後三条天皇は、荘園整理を進めるのと同時に、勅旨田という皇室が保有する領地の拡大にも尽力しました。藤原氏などの有力貴族が寄進地系荘園を増やす一方、皇族たちの経済的基盤が弱体化していたのを改善するためでした。後三条天皇は、藤原氏を外戚としないことで政治的に藤原氏に依存しないことに成功しましたが、経済的にも藤原氏などの有力貴族に依存しなくて済むよう、皇室の経済基盤を強化したのです。

「荘園公領制」

◯なお、この荘園整理令によって違法荘園が摘発・没収されたことで、全国の土地は「公領(国衙領)」「私領(合法荘園)」と二種類にはっきりと区別されることになりました。このように、国の土地が「公領」と「私領」に区別され、土地の所有権が明確化された仕組みを「荘園公領制」と呼びます。

延久の新政

後三条天皇の最大の業績は荘園整理令によって藤原氏の力を衰えさせ、天皇権力の強化を図ったことですが、その他にも、絹や布の品質を統一した「絹布の制」、農作物の量をはかる枡を国の定めたものに統一した「宣旨枡」、内裏の工事の費用などを荘園と公領から一律に徴収する「一国平均役」など積極的な改革を行ないました。

◯また、東北地方の征夷平定の完成を目指して源頼俊に遠征させます。その結果、津軽半島や下北半島(つまり現在の青森県)までを支配下に置き、朝廷の支配領域が広げることに成功しました(延久蝦夷合戦)。

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◯後三条天皇の政治は「延久の新政」(延久の善政)と呼ばれます。後三条天皇の在位期間はわずか4年に過ぎませんが、その政策は後の世に大きな影響を与えました。

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