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岩波少年文庫を全部読む。(15)破天荒で世界一強いピッピは、じつはつねに庇護されている存在である。 アストリッド・リンドグレーン『ピッピ船にのる』

(初出「シミルボン」2021年1月7日

ピッピの父はほんとうに「黒人の王」

 前回『長くつ下のピッピ』について、僕はこう書きました。

ピッピは〈赤毛〉なのに、その父エフライム船長は〈黒人の王〉であるとは、どういうことでしょうか?

 この真相が判明するのが、続篇『ピッピ船にのる』です。

 ピッピの父エフライムはかつて、船長をつとめていたスクーナー船ホッペトッサ号が暴風雨に遭ったさい、海に落ちて行方不明となっていました。彼はその後、南の島へと漂着し、そこの王に迎えられて島民たちを治めていたのです。

 このような、外から訪れた白人を王として迎え入れる「未開人」、という空想のありようについては、次回『ピッピ南の島へ』の回に触れたいと思います。

父が帰ってきた

 その父が、元気いっぱいにピッピたちのもとを訪れます。彼は家に帰るために島をヨットで旅立ち、かのホッペトッサ号と偶然に遭遇して、国に戻ってきたのです。

 ピッピはその船長と腕相撲をして互いに譲らず、10歳になったら父を負かすと宣言します。彼女の剛力は相変わらずです。なにしろ本作でも彼女は虎を素手で押さえつけたり、大人と子ども合わせて8人を載せた馬を持ち上げて庭を25周したりと、その力で父を凌駕するのですから。

 トミーとアンニカのセッテルグレーンきょうだいは、破天荒なピッピが父とともに南島へと去ることを知って悲しみます。しかしまさに出航の瞬間、ピッピは父よりも友人たちを取ることを決心したのです。

ヒロインの破天荒さはひたすら「免責」されている

 父は生きてはいるけれど子の人生に干渉せず、その父が得た多額の金貨でひとり暮らしをする。近代文学ではなく民話のような設定です。

 しかし民話の主人公と違って、ピッピはそのお伽噺的な力(腕力と財力と)で、学校などの近代社会の(つまり民話的でない)秩序からはみ出していく。主人公にはこれといった「反抗」の意図は感じられませんが、作者には「反抗」の気分があったのかもしれません。

 この「責任」を免除されたピッピのありようは、「抑圧的な家父長制から自立する存在」ではなく、「強くて優しい家父長制によって庇護される存在」です。

 これはたとえば、同じ児童文学でも「責任」を問うことによってきわめて印象深いケストナー『点子ちゃんとアントン』(1931。池田香代子訳、岩波少年文庫)との、大きな違いだと思います。

庇護される存在の物語は自立の物語ではない

 「庇護される存在の物語」には「庇護される存在の物語」の魅力があります。ピッピ3部作の魅力は、あくまでこの「庇護される存在の物語」の魅力です。

 そして「庇護される存在の物語」がすべて「自立や解放の物語」よりも劣る、などということはありません。

 けれど「庇護される存在の物語」はどう間違っても「自立や解放の物語」ではない。そこを誤ってこれを「自立や解放の物語」であるなどと主張してしまうと、「庇護される存在の物語」としての魅力自体を受け取り損ねてしまいます。

 ピッピは「庇護される存在」であるがゆえに、「すでに存在しているものを奪う」ことにやすやすと成功してしまうのです。この点でピッピ3部作は、「児童文学ならでは」の、過渡期にあらわれた強い薬のような作品に思えます。

 本稿はあくまで僕個人のピッピ3部作への違和感をあとづけで説明した文章にすぎません。

リンドグレーンのシングルマザー時代

 本書巻末に一文を寄せている三瓶恵子さんの著書『ピッピの生みの親アストリッド・リンドグレーン』(岩波書店)には、つぎのようなことが書かれています。

リンドグレーンをインタビューした人々のなかでいちばん彼女の核心に近づくことができたと思われるマルガレータ・ストレームステットによれば、リンドグレーンのファンタジーあふれる児童書は、実は現実逃避と自分自身へのセラピーだともみられるのだそうだ。〔37頁〕

 そういえばリンドグレーンは10代の終わりに既婚者である上司と恋愛関係となり、「できちゃったシングルマザー」となってしまいました。

 そのわずか5年後にべつの職場で、またも既婚の上司と恋愛関係となり、こんどは「略奪婚」へと発展しています。懲りない……。

 リンドグレーンという姓はこの2度目の上司のもので、のちにピッピの物語を話して聞かせた娘(のちの翻訳家カーリン・ニューマン)はこの結婚でもうけた子でした。青春期のリンドグレーンはまさにやんちゃというか反抗児だったわけですね。

 やや破天荒なところのあった若きリンドグレーンの恋は、大人の秩序を乱すピッピの冒険同様に、ロマン主義的な〈反逆の神話〉の文脈でなら、もてはやされがちなタイプの現象です。

 大人の読者である僕は、1940年代当時の児童(文学)観からすれば革新的・衝撃的でスキャンダラスでさえあったピッピ連作の、カオスなエネルギーの爆発を、それはそれとして楽しむことができます。

 と同時に、そこに「女性の自立」という問題をつい安易に投影してしまいたくなる誘惑の前では、踏みとどまるつもりでもあります。体幹でしっかり支えて。

Astrid Lindgren, Pippi Långstrump Går Ombord (1946)
2000年6月16日刊。大塚勇三訳、桜井誠挿画。「訳者のことば」、三瓶恵子「ピッピの誕生」を附す。

アストリッド・リンドグレーン、大塚勇三、桜井誠については『長くつ下のピッピ』評末尾を参照。

三瓶恵子 1952年中国・哈爾浜に生まれ、日本で育つ。お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士課程中退、スウェーデン政府奨学生としてウプサラ大学に留学。日本貿易振興会ストックホルム事務所主任研究員をつとめる。著書に『女も男も生きやすい国、スウェーデン』(岩波ジュニア新書)、『ピッピの生みの親アストリッド・リンドグレーン』、訳書にリンドグレーン『エーミルと小さなイーダ』(以上岩波書店)など。

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