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聖徳太子の謎

日本の歴史上、これほど謎に包まれた
人物はいません。

私は大学時代、古代日本史を専攻し、
卒論のタイトルは、
「聖徳太子と仏教伝来」でした。

この人物に関して並々ならぬ関心があり、
京都来訪の際は、必ず奈良まで足を
延ばして太子の足跡と生きた時代に想いを
馳せたものです。

聖徳太子は諡号です。即ち、無くなった
後に送る「おくりな」です。

本名は「厩戸豊聡耳皇子」です。
以降、「厩戸皇子」と表記します。
※「厩戸皇子」というのは、あくまで
戦後に使われるようになった呼称です。 

なぜ、そんなに謎に包まれているのか?

少し前まで一万円札に印刷され、
「聖徳太子二王子像」も現存しますので、
実在した人物だと疑う余地はない
ように思われますが……

まず、「摂政」という前例のない
立場で、どうしてあれだけの偉業を
成し遂げられたのか?

血筋的には用明天皇の第二皇子、
十分に天皇(おおきみ)の位を
狙える立場です。

大臣(おおおみ)蘇我馬子の専横、
推古天皇の重祚、崇峻天皇の暗殺と
確かに一歩引いた立場での政が、
その時としてはやり易かったのかも
しれません。

当時は天皇中心の中央集権国家には
まだ程遠く、大王(おおきみ)の
立場は首長的なもので、臣下である
大臣の権力と拮抗している程度でした。

しかも摂政です。天皇が女性、または
幼児である場合に補佐する役目に
過ぎません。

その立場において馬子の力を押さえつつ、
時には利用しつつ、融通無碍に天下を
動かしていたのです。

事績を改めて書き連ねるのも野暮ですが、

まず、馬子が物部守屋を殲滅した後、
大陸の先進文化である「仏教」を受容し、
これを日本に根付かせています。

推古天皇の皇太子となった後、
摂政として政を行い、大王(天皇)は、
実質的に政は行わなくなりました。

その後、斑鳩に法隆寺を建立し、
馬子との関係も仏教を通じては
良好だったことが窺えます。

なぜなら、蘇我馬子の建立である
法興寺(飛鳥寺)とは、「仏法興隆」の
四文字から二字ずつ仲良く取り合って
いるからです。

次に外交面です。
中国を統一した隋に対して、600年、607年、608年、614年の4回、使者を送っています。

隋の煬帝は、「日出る処の天子」の
文書に激怒したと言いますが、
この時点で厩戸皇子は自らを日本の
天子(たりしひこ)だと言っています。

内政面では、有名な冠位十二階の
制定です。これによって、家柄ではなく、
個人の力量、才能によって地位が
決められることとなりました。

そして憲法十七条の制定です。
これは官人の服務規律であり、
道徳規範でもありました。

どうでしょう?これだけの事績を摂政
という立場の一人の人間が行えるもの
でしょうか?

そこに最大の謎があります。

現代の教科書には「厩戸皇子(聖徳太子)」
と書かれているそうです。

「厩戸皇子」という人物の実在は認める
けれど、「聖徳太子」の事績全てをこの
人物が行ったとは考えていないのです。

即ち、「聖徳太子複数人物説」です。

確かにこれだけのものを一人で行った
となれば超人です。

また、それを裏付ける子孫が
絶えてしまっているのも、
謎に拍車をかけています。
(上宮王家は奇しくも蘇我氏の子孫に
滅ぼされています。)

しかし、これは日本史では度々見られる
現象と言えます。
日本武尊がいい例です。一般的には父に
東征を命じられ、旅先で亡くなった悲劇の
皇子ですが、名前に注目してください。

「日本武尊」やまとたけるのみこと、
意味は「日本の猛々しい神」です。

「聖徳太子」も「ひじりの徳の皇太子」
ですから、どちらも一般名詞と考えても
差し支えないような名前です。

このように個人を特定できないような
普遍的な諡号は、何人かの功績を一人に
集約する場合に用いられているような気が
してなりません。

因みに日本武尊も戦後すぐに
高額紙幣の顔になったそうです。

聖徳太子の方は、先年ご遠忌1400年
ということでしたが、特に話題に登った
記憶はありません。


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