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貪瞋痴

煩悩という言葉は広く知られていますが、どんなことを指すのでしょう?それは、私たちの心を悩ませ、かき乱し、煩わせる心の動き全てを指します。

その煩悩に支配された状態を無明と言います。それは貪欲(むさぼること)、腹を立てること、愚痴をいうことに代表されます。これらを順に貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)と言います。心身を毒するところから三毒とも言います。

一つ一つ解説が必要でしょう。まず貪について。人間の欲望には限りがありません。一つ叶えば、次の欲望へ。次から次へ、泉のごとく涌いてきます。これを貪欲(どんよく)と世間では言います。

利益追求型の現代社会では、ある意味貪欲であることが必要とされます。しかし、「貪」とは本来、必要以上にむさぼることを言います。満足することを知らないのです。

衣食住にまつわる全てに人間は貪欲になります。原始仏教の僧団(サンガ)が、なんら生産性をもたない集団であったのは、これを防ごうとしたことに起因しているのではないでしょうか。

托鉢、糞掃衣、頭陀袋。全ての生活を最低限にして、ダンマに従い、人生を解脱に費やすのです。

さて、貪欲を制するためにはどうすればよいのでしょう。仏典には「知足(ちそく)」という言葉が見て取れます。文字通り、足ることを知るという意味です。

小さな事で満足を味わう。当たり前のことに感謝を捧げ、喜びを感じること。そこに満足、満たされた心が現れて来ます。

次に瞋について。何かに腹を立てること、怒りの感情のことです。人によっては、この制御が一番難しいかもしれません。

腹立たしさ、怒りは一時的なものならば、内観と共に消え去りますが、長くこの感情を持ち続けると、怨みつらみになってしまいます。これは業のもとです。

さて、瞋について我々はどう対応すべきでしょう?仏典に今度は「忍辱(にんにく)」という言葉が見て取れます。忍辱とは様々な屈辱に耐えることです。

これもなかなか出来ないことです。どうしても自尊心とぶつかります。屈辱、辱めを乗り越えるのはまた、我を抑えるいい機会ともなります。耐えに耐え、忍びに忍んだ後に、己の真の価値に気付くこともあるでしょう。

最後の痴ですが、これは取りも直さず愚痴(ぐち)のことです。物事の捉え方が愚かで痴れているのです。

世間で言うところの「愚痴をこぼす」は、本来こうした正しい見方、考え方から外れてものを言うことを意味します。

誰もが簡単に陥る愚痴ですが、これの対処法は、釈迦の教える正見、正思惟に尽きます。
正しく物事を見、正しく考えるならば、痴に惑うこともなくなるでしょう。

因みに数年前に話題になった椎名林檎の「鳥と蛇と豚」はこのことを歌っているそうです。チベタン仏教で、貪瞋痴をこの三つの動物になぞらえるのが由来だそうです。

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