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表現の価値って素直さじゃないだろうか

要はどれだけ力抜けてるかだと思うんですよ、それぞれいろんなことを考えるけど、思い込みや無意識の反応とかで素直さは曇る、翻弄されてるうちに本心はどっかいく、それを掴むには、素直さのレベル上げが必要。

素直さのレベル上げとは。まず無意識に働いてる諸々に気づくこと。無意識に気づくには、自分より素直な誰かの言葉や生き様を見る、自分がまだ抱えてる余計なものはなにか、まずは感覚的にでもいいから気づく。

そっから意識できるようにしていく、意識していく過程では言葉がいいツールとなる。他人(人に限らず、街とか風景とか料理とかでもいい)の素直さに触れたときのなんとなく生じた違和感を逃さず、きちんと言葉にする。理性の塊として産み落としておく。

というのを逐一やっておくことで、だんだん無意識が言葉になっていき、意識できるようになっていく。たくさん言葉を知ってる人がえらいのはなぜか。それは素直さを理性で意識できているからである。無意識の素直さを日々深掘っている証、解像度が高い。

ほんで表現の話、どんな表現も尊くて美しいけど、なんでみんなに拍手をもらったりもらわなかったりするかと言うと、僕の仮説は「より素直かどうか」。

人間って個体差あるけど解像度上げてくと無意識の領域では一致してたりして、その深掘りができてるもの、解像度の高いもの、すなわち圧倒的に素直なもの。によって、生き方も価値観も全然ジャンル違う他人にぶち刺さったりする。そう。

表現に迷ったら、とりあえず素直さを目指せばいいと思う。んで他人の素直さを参考にする、そう僕の言葉で言うと「クソデカ」。圧倒的にクソデカに触れる。クソデカとは、圧倒的で、どうでもいい固定観念などが一撃でぶっ飛ぶクッッソデカ。これ書いてて気づいたね、クソデカは「いまの僕には想像だにしない圧倒的素直さ」。嘘でしょ、そんな、そんな囚われてないことって、そんな自由なことって、あるんだ、解放、ぼ、僕も、、そうやって、、解放されて、、、いたい、、、、うううううう

みたいな、クソデカに触れると一瞬でクソデカ感情が訪れ、しばし静寂、余韻があって、そして自己嫌悪になることが多い。これまでの、、、これまでのじ、人生、、、、、、虚無、、、、

るんだけど、まあ一度白紙にしてまたぶっ建てて、その繰り返しでちょっとずつ囚われなくなっていく、素直になっていくんですね。

一時的な虚無をおそれるな!
そうそれはこのあとすぐ手を広げて待っているひとつ上の素直さ、そのための前座にすぎんのや。

クソデカ感情はちゃんと表現をしておく、言葉など理性で捉えられる形にする習慣をつけておくと、クソデカ▶︎レベルアップ〜!のスパンが短くなって、レベリングが効率化できるよ。

別に表現者じゃなくてもね、そういう観点でも表現って大事なんな。イキるな!素直さで勝とう!以上ありがとうございました

足立

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