精神障害者の闘病日記6

父が二度目の出所をした。誰も迎えに行かなかったので自立支援施設へ引き取られていったらしい。というのも本人がそう電話をかけてきたからだ。この時電話番号を変えなかったことを後悔することになる。
 自立支援施設から紹介してもらった仕事先で交通事後を起こしたと電話をかけてきた、驚いた、何しろ傷害事件を起こしてから免許を更新させないようにしていたから無免許だ。家族は慌てた。古いやつでいいから免許のコピーをと言われてさっさと提出してしまった。さらに30万よこせと言い出す、さすがにここでおかしいんじゃないかと思い始めた。雇われているのだから自分で働いて返せと言っても早く早くとせかしてくる。
 のちにこの事件は、自立支援施設と確認を取ったら施設の仲間内で計画してどうにかお金を手に入れようとしての犯行だった。父自体は免許が欲しかっただけだと言うが、定かではない。
 そうして自立支援施設からの支援期間を終えた父は協力雇用主のところで養われて働くことになる。その協力雇用主がいけなかった。地元でも悪いと有名な茶園であった。協力雇用主として元受刑者などを引き取るなど善い行いをしているが、その代わりに従業員に生活保護を受けさせ生活費として受け取っていたり、年金までも生活費として受け取るという、いわば貧困ビジネスを裏でやっている、と地元でも有名であった。
 我が家が裏で好き勝手言われているように、彼らも本当はいい人なのだろう、という考えをしたのは馬鹿であった。本人の自立の為に生活保護を受けさせると言って生活保護のために面倒を見切れないとサインしろと言ってくるのはまだよかった、けれど一生面倒を見ると言っては父の面倒が見切れなくなったと言って家に戻してきたりする。それのどこが不満なのだと言われても仕方のないことかもしれないが、実際はもっと細々とした出来事があり、そのたびに家族総勢で我が家へと押し掛けてくるのだから困り果てていた。
 生活保護は認められた。祖父は反対した、あんな噂の悪いところに父を置いておけないと言った。じゃあ祖父が面倒を見るかと聞いても、わしは知らんの一点張りで困り果てた。結局は母に全ての責任が行くようになってしまった。
 そんな折に父が入院することとなった、茶園で仕事をしない日々が続き、仕事をしない言い訳が尽きた父にとってはよい出来事だったのだろう。肺が化膿しているとのことだった。軽い肺炎のようなもので入院をしたが、茶園は我が家に、集中治療室にいる、会う時はうちを通して面談してほしいと言った。実際はそんなことなかった、なぜそんな嘘をつかれたのか分からない。主治医は、家族がいるのになぜ茶園が父の身の回りを仕切っているのか分からないといった風情で父の様子を説明してくれた。
 とにかく茶園は個性的だった。「ひどい家族だ」「外面だけで世話をすると言っているだけで、父親を心配しない、父親をいじめている家族だ」と地元中に言って回った。これは実際に、こう言って回ってやったわ!と当人たちから言われた。この頃既に私の職場は地元の小学校ではなくなっていたが、それでも自分の居場所がどんどん失われていくのを感じた。
 今まで自分たちが身勝手な父にひどい目にあわされてきたのか、全く知らない人から見て「父をいじめて追い出した」「自分たちの外面しか考えていない」という妄想で何もかもが壊されて悲しかった。
父は茶園に引き取られても相変わらず仕事をしなかった。茶園で仕事をしないと叱られて嫌になれば「家に帰る」と言って我が家へ戻ってきて、我が家で厳しい扱いを受ければどれほど引き留めようと茶園へ戻っていった。
今まで自分がした行いを考えてみろ、そう簡単に家族がちやほやしてくれるはずない、厳しいだろうけど耐えて家の仕事を手伝ってくれ、もう何年もそう言い続けてきたが、父には自分になぜ家族が厳しく接するのか分からないようだった。借金だけじゃなく子供の金まで盗んでいた、それを悪いと思っていないし今でも平気で仏壇の前の金を盗る。そんな父を叱ることが日課になっていた。いつ何が盗られているかわからなかった、隣の家の柚子を勝手にとって自分が収穫したものだと言って茶園に持って行ったこともある。
そんな中、とうとう茶園にも無理がきはじめた。なにしろ家が嫌になったと茶園へ行くときは迎えに来いと平気で呼びつける父である。お前にばっかり付き合っていられないと叱り倒した茶園には同意するがそういいつつ長々と甘やかしたのはどうにかしてほしかった。父をろくでもないと怒鳴る口で、我が家のこともろくでなしと罵っていたのだ。父がどんな行いでも平気ですると知ってもなお、我が家のことを悪く言ったことを謝ろうとはしなかった。甘やかされた父は無断で茶園の自宅へ入り込むようになっていた、自宅に上がり込んで部屋でテレビを見て帰りを待っているということが何度かあったらしい。しかもそれも、茶園がもううちに来るなと本人に行った後に何回かあったという。父はそんなことは一切言ってなかった。茶園に迷惑だろうとこちらが何度言っても「茶園はいつでもきていいと言った」と言い張る。勝手に家を出ないように注意をしていても二階の窓から外へ出ていく。
ある時、きっと茶園がもう来るなと言ったときだろう、父が家に帰ってきた。茶園に持って行った荷物の話になった。祖父が、お前が出ていくと言って持って行った荷物だろう、自分で持って帰ってこい、と言ったら茶園から軽トラごと盗んで帰ってきた。もちろん警察沙汰になった。本人は軽トラは返す気だったと主張したのでおおごとにはならなかったが、もちろん茶園は怒った。
さすがに困り果てて病院へ連れて行った、何年も前に精神病院へ連れて行ったときは、「これは病気でも何でもない、本人にまじめにする意思がないだけ」と診断された。そのことがあってか、私も病院へ行くのを長々ためらっていた。父のように本人の意思がないだけと診断されるのが恐ろしかったからだ。結局私は診断が出ていたが父は分からない。今回もそうかもしれないとおびえつつ診断すると、医師がもしかしたらと話した。
「前頭側頭型認知症かもしれません」
病気かもしれない、そう思う時が楽になった。これが病気のせいだったら、どうにかなるのかもしれない。検査は別の病院でないと行えないということで、紹介状を書いてもらう間に必死に調べた、症状が合う、合う、合うじゃないか……!
横にいた母に説明した。母も父に付き合いすぎて理解力が足りなくなっていた時期であったからネットの言葉をかみ砕いて説明した。その頃の私はニートでよかったと思う。父の世話に母一人だけだったら途中で父に逃げられていただろう。母と二人、病院に付き添いながらいろんな検査を受けた。結果は、前頭側頭型認知症だった。
診断を受けてからは早かった、父を入院させないと家族の方が先に壊れる。そう思っていた矢先に父は家を抜け出して駅で自転車を盗んだ。警察に事情聴取を受けると真っ先に「認知症なんで、認知症なんで」と言い訳をしたという。お前が盗みをしていい言い訳の為に病院に連れて行ったんじゃない、と怒鳴ったけれど父は無言だった。病院での診断時期が早まりそのまま父は入院した。病院は期限があるから老人ホームが見つかるまでね、と念を押された。次は父の老人ホーム探しが始まった。

このシリーズはここでいったん終了します。ありがとうございます
また続きが書けたら書きます。

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