精神障害者の闘病日記2

闘病日記とあるのに自伝のようで申し訳ない。

つまらないだろうけど自分の話をしようと思う。
傾向というよりは本質が恥ずかしがりなのだろう。自分の考えを他人に話すのが苦手だと感じていたのは幼稚園に通っていた時からだった。発想力がないわけではない、それを他人に話して笑われ、否定されるのがとても恐ろしいと思っていて、話さないようにすることで自分を守っていたのだ。
幼稚園で皆とセリフのない漫画を読み、「この場面、ネコちゃんはなんて言っていると思う?」などと先生に聞かれても恥ずかしくて答えられなかったことをよく覚えている。
そんな自分が多少の恥ずかしがりやから、恥に過敏に反応するようになっていったのは家庭の影響が大きいのではないかと考える。
祖父は厳しい人だ。自身も幼少期に母親を亡くし、妻も子供が幼い時に亡くしている。その環境を、長男であったこともあり一人で乗りこえてきた経験から〈人は頑張れば何でもできる〉という考えが強く、自分にも他人にも厳しい人であった。
そのせいで妻は幼い子を残し自殺し、子どもたちは成長すると各々家を出ていくようになるのだが、それを自分のせいだとは一切感じない人だ。
とにかく、そのような厳しい環境に育ったせいか家を出た父は奔放に生きていた。母と結婚してもまともに金を家に入れることなく遊びつくしていた。
私がそんな家庭の環境に気付いたのは姉が中学に入学する際にもらってきた書類の中にあった。
「奨学金もらわんでもええんやな? ほんまにいけるんやな?」
 母が父にそう厳しい声で聞いていた。幼い私は自分の家が奨学金をもらうような状況だとは全然思っていなかったので驚いたのを覚えている。
 その後、父が生活費として家に入れていた金も金融会社から借りたもので、いつの間にか会社も解雇されて日々ギャンブルのために借金を重ねていたと知ったのだった。
 父の借金が発覚したのがいつだったか覚えていない。けれど私自身が中学3年生の頃に「もしうちに借金が一億あるなんて言ったらどうする?」などと笑い話で言っていたので、その頃には家庭が借金を抱えていることを知っていたと思う。私が中学2年生の頃には父が家に帰ってこないことが増えていた。半年帰ってこない日もあった。車の中で寝泊まりしては借金をし、その金でギャンブルをして遊び暮らしていたのだ。姉や弟相手には何度も学校の校門前や駅前で待ち伏せし、「百円、いや十円でもいいから」と金をせびりに来ていたことが何回もあった。学校側に不審者として通報されたこともあった。
父に会うことがあれば家に帰るようにと伝えたが、父が家に帰ってくることはほとんどなくなっており、休日は祖父による父の捜索に費やされるようになった。たいがいは長子の姉か長男の弟で、私が連れ出されることはなかった。一度、祖父に「二人とも忙しいのに私が行こうか」と言ったら「これは遊びじゃないんだぞ、お前が行ってなんになる」と言われたことがある。結局、私が父を探すために祖父に連れ出されることはなかった。
家に借金取りが来るようになった、家に誰かが来たら隠れて確認しなければならなくなった。電話の音が鳴るたびに家族が固まっていた、番号で誰か確認できるまで電話に出てはいけないというルールができていた。電話番号を変えた。けれどそれもすぐに意味がなくなってしまった。留守電の容量がいっぱいになった。ほぼ怒鳴る声でいっぱいだった。なんと相手が子どもたちの教員のふりをして電話をかけてきたこともある。学校の用事かと慌てて出たら「電話番号を変えよって!」と怒鳴られたりもした。「娘さん、二人いるんですよね」と言ってきたこともある。日々ストレスの中で生きていた。
借金は金融会社だけではなかった。親戚や近所中、父自身の友人ならまだしも、子どもの担任の自宅に押し掛けたこともある。
 頭を下げなければ道も通れなくなった。どこから借金が出てくるかわからなくなった。さすがの状況に祖父も自身の貯金を崩し保険を解約、親戚に頭を下げて金を集めた。
 父に反省の意思はなかった。たまにふらりと帰ってきては家のものを持って出ていき、車での生活を繰り返していた。そんな生活も何年かすると限界がきた、車が壊れたのだ。少し大人しくしていたと思ったが何キロも歩いて家を出ていき、どこからともなく車を借りてはまた車の中で生活をしていた。もちろん貸した主は怒る、けれど家に怒鳴り込んで来られても帰ってきていないのにどうしようもないのだ。そして事件は起こった。
 車を貸した店の従業員が、父が乗った車を見つけたのだ。父は逃げようとして、逃がすまいと車に掴まった従業員を引きずって運転した。傷害事件だった。
 新聞に載った。その日は夏休みだったけれど私は高校での補修があった。行きたくないと泣きながら家を出たのを覚えている。同じ地元の子にクラスメイトが何か聞くかもしれない、地元の子も私の家のことを好き勝手に言うかもしれない。でも何かあるか分からないから休みたい、でも休んだら祖父や母は自分のことをなんて思うだろう、何て言われるだろう。
 結局どこにも居場所が無くて泣きながら学校へ行った。学校へ向かう汽車の中で、地元の子に会った。その子とは別のクラスだった。「話すの久しぶりだね」向こうはそういって笑った。けれど自分の中では、新聞に載った事件を知っていて気遣って私に話しかけているだけだと疑わなかった。私はなんて返して会話したのか覚えていない。彼女は私の記憶の中の中学生の頃の彼女よりよく喋っていたのは覚えている。
 誰にも何も言われないまま、日々は過ぎていった。けれど内心ではびくびくと人の顔色を、クラスメイトの会話を窺っていた。
 人にどう見られているのか、笑われているのではないかと疑ってしまうのは思春期なら誰しもあることなのだろう。顔などの容姿、服装、性格、そして家庭環境。それらを他の子と比較して果たして自分はどうだったのであろうか。私が父の存在を〈恥ずかしいもの〉と思っているように、相手に恥ずかしいものだと思われていないだろうか。そうだ〈私が他人のことをそう思うから、他人も私をそのように思うのではないか〉という考えなのだ。結局私も根性が悪い人間だから、他人を毛嫌いして行動の裏を深読みするからこそ、他人も自分をそう思っているのだと考えてしまうことに疑いが無いのだ。
 一人になりたいと思った。一人では生きていけないと知っていても、誰とでも他人でいられる空間で生きていたいと思った。
 父が傷害事件で有罪になった、刑務所に入ることになった。母は朝8時から夜10時まで働く生活をもう何年も続けていた。家事は姉弟でできる限りしていた。学校へ行くために駅への送り迎えは祖父がしてくれた。厳しい祖父だけど子どもたちには多少の負い目は感じていたのだろうと思う。
姉弟で頑張っていても家事は終わらないし朝が来れば学校に行かなければならない。担任に勉強してなさすぎる、勉強時間があまりにも少ないと言われたこともある。忙しいんです、と言ったら、それは皆一緒じゃ、と返された。そのことにショックを受けたのをはっきり覚えている。確かに苦労していない家庭は少ないのかもしれない。けれど、借金はあるし父は受刑者だし母は日々働きづめになっていて、厳しい祖父は少しでも反抗しようとすると母を怒鳴る、そんな苦しみを他の人たちと同列に扱われたのがショックだった。先生は本当は私の家の事情も知っていたのかもしれないけれど、自分からしたらみんな笑っていて〈幸せ〉そうに見えたから、一緒にされたことに理不尽と虚無を感じた。でも先生は悪くない。きっと自分が同じ立場だったら同じことを言っただろうから。
 高校生の私には習慣ができていた。鏡の前で笑うのだ。ニコッと笑ってみせて「大丈夫、まだ笑えているから大丈夫」と自分に言い聞かせるのだ。心の中では死にたいと、過去の自分を殺したいと叫んでる自分がいた。



こんな自分の話に需要なんてあるのだろうか




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