精神障害者の闘病日記3

 大学は県外へ行った。祖父が許してくれたのは国立大学だったからだ。大学時代は幸せだった。自分の好きなように生きられた。高校生の時から隠れて二次創作の活動をしていた。大学生になって自由な時間が増えるとよりいっそうのめり込んだ。自分のサイトで細々と書いていたのを投稿サイトに投稿するようになる。評価されると嬉しいからまた書く。否定的な自分はいたが、それ以上に評価を求める自分がいた。SNSでも投稿した二次創作をきっかけに交流する人が増えた。日々の些細なことでも共有する人がいた。心細くも寂しくもなかった。そんな時に出会った人がいる。K氏と呼ぼう。K氏は最初あまり接点のない相手で、なぜ自分をフォローしたのか理由がはっきりわからない。それが第一印象だった。今ではとにかく何でもすぐにK氏に話しかけるようになった。他にも相棒とも呼べる相手など、この頃のSNSがきっかけで何年も交流を続けられる相手ができた。学業も無難にこなしていたおかげで四年間授業料は無償だった。家庭の金銭面を考慮してくれていたのだろう。おかげで奨学金だけで生活できていた。県外なので誰も自分の家庭のことなど知らない、誰も父が犯罪者だと知らない。それだけでだいぶん息のしやすい世活だった。あの四年間が無ければ今頃私は死んでいたかもしれない。
 バイトをしようと思った。けれど怖かった。気の弱い自分に何ができるか分からなくて諦めた。学業優先と言って結局は他人と接するのが怖かった。
 その延長で職探しも苦手で失敗に終わった。なんとか面接の予定を入れてもその時まで何があるか分からなくてちゃんと面接に行けるのか、服はどうしよう、何を聞かれるだろう、日付や場所を間違えたらどうしよう、そればかり考えてしまって複数の企業に応募することなど到底無理だった。
 自由に動ける大学時代でさえ不安だったのだから、実家暮らしである今は推して知るべき。自分の予定では動けず、祖父の予定に振り回される。それも大体畑仕事である。就職のためと言っても就職先に口を出し、「若くないんだから近場で職を探せ」と過疎地の中心で叫ぶ。田舎が嫌いなのではない。縛り付けて家族を便利な使用人としか思っていない祖父が嫌なのだ。結局、モラトリアムの殆どは祖父のために費やした。たまに帰省する親戚の姿を見るたびに惨めだった。祖父の世話を押し付けて自由に過ごしている姿。きれいな服、爪も顔もきれいに整えられて旅行先について語る口紅の乗った唇。畑仕事が多く爪の間には土がこびりついていて、汚れてもいいようなぼろ服、仕事の時くらいしか許されない化粧。正反対の姿がよりいっそう見せつけられているようで親戚と会うのは嫌いだった。結局自分たちは彼らがそうやって自由に遊ぶために祖父の面倒を押し付けられている生贄なのだと思い知らされる。母を見ろ、姉を見ろ、弟を見ろ、私を見ろ、人生の何がよかったのか答えられやしない。
 そんな自分でもなんとか臨時で雇ってもらえるところがあった。近所の小学校の事務職員だ。全校生徒30人に満たない学校は地元ということもあって過ごしやすかった。自分の母校ということもあり学校行事は慣れ親しんでいたのであとは仕事を覚えるだけでよかった。それでも辛かった。自分のいない隙に仕事の不備を笑われていないかという不安、前任者と比べられる苦痛。一つの仕事を終える前に次々とくる仕事。大学卒業したてというのもあって他の先生たちは優しく見守ってくれていたと思うがそれが余計に頑張らなければと自分を責めた。「いつまでも大学生気分でいられては困ります!」仕事を頑張っているつもりだったのに校長先生に叱咤されて、自分の甘さを思い知る。頑張っているつもりだったけど本気として通じていなかったのだ。分からないことができても、そんなことも分からないのかと怒られて陰で笑われるのが怖い。次々と貯まる仕事、まだできないのかと要求されて、ようやく分かりませんと告げればやはり怒られた。失敗が貯まる。きっとみんな笑っているに違いない、行くのがつらかった。でも一度休んでしまえば次に行くときの方が恥ずかしいと思った。父のついでではなく私個人に向けられる悪意。恐ろしかった。どちらの方がよりつらいかを考えて行動していた。安心できる道はない。竜か虎ならどちらで死ぬかを常に選択している状況。安心できる逃げ道では次がより辛くなると知っていたからだ。風邪で休んだ後に勉強についていくのが辛くなるような感じ。
 だから逃げてないから強いのだと、病気にならないのだと思うのだろうか。誰にも、どこにも安心できる場所も逃げ場所もないと知って傷ついてでも外に出るのは、強い人間だからだろうか。

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