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ホラーは小説に向かない?

X(旧Twitter)で、こんなポストが流れてきました。

1.ホラーは極めて小説的なジャンルだと思う。怪談を含むホラー表現は、何が書かれているかより、いかに書くかが重要だ。これほど文章表現に依存したジャンルもないのではと思う。今売れているホラー小説を読めばそれはすぐにわかることだ→ https://twitter.com/kazakura_22/st

https://x.com/makinoma/status/1746509218914656411?s=20

削除されてしまいましたが、引用元ポストはこちら。

個人的に、イロイロと思った雑感を。ヘッダーは、エドガー・アラン・ポーの作品『モルグ街の殺人(The Murders in the Rue Morgue)』の挿絵です。史上初の推理小説ですね。でも当時は、ホラー小説の扱い。


①横溝正史の映像と小説

子供の頃は横溝正史作品の大ブームで、映画やドラマで映像化されたそれは、とても怖かったです。ところが長じて読んだ原作小説は、さほどホラー色は強くなく、拍子抜けした面も。

ただ、本陣殺人事件の水車と日本刀、獄門島の鐘、手鞠歌の升と漏斗など、映像化したときにポイントとなる視覚的な仕掛けが、豊富でした。同時に、本陣や犬神家の琴、獄門島の鈴、手鞠歌、悪魔がのフルートなど、聴覚的な仕掛けも多い印象でしたね。

言うまでもなく、漫画には絵はありますが、音がありません。それは弱点ではありますが、同時にマンガでしかできない音の表現があります。上條敦士先生の『To-y』や二ノ宮知子先生の『のだめカンタービレ』、羅川先生の『ましろのおと』など、音楽マンガのヒット作が成立する理由でしょう。

であるならば、絵がなく音もない小説でも、普通にホラー小説は成り立つのが、理解できますね。もちろん、絵も音もある映像表現は、それが得意であるのは疑いないですが、『To-y』のアニメでは、その得意なはずの音をあえて消すことで、印象的な表現に昇華していたように思います。武器は使えばいいというわけでは、ないのです。

②エドガー・アラン・ポー

推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーは、始祖ゆえに推理小説とホラー小説が未分化な時代の小説家で、詩人でした。

史上初の推理小説『モルグ街の殺人』にしても、モルグとは死体置き場の意味で、森鷗外がドイツ語版から重訳したときは『病院横町の殺人犯』との邦題がつきました。タイトルからホラー風味があり、内容も母子の惨殺事件で、密室トリックの最初の作品。

ポーはホラー小説でも『黒猫』や『赤死病の仮面』や『アッシャー家の崩壊』など数々の傑作を執筆しており、むしろホラー作家の側面が。これらの作品は、視覚的表現がふんだんという点で、横溝作品のルーツでもあります。

最初の作品集タイトルが『グロテスクとアラベスクの物語』であったように、もともと視覚的な意識が強い作家で、ロジャー・コーマンによる映像化でも、その映像表現的先進性が、映画という媒体にもマッチしています。

③視覚情報と聴覚情報

また、聴覚的な仕掛けも、『モルグ街の殺人』の、殺人現場から聞こえた謎の外国語や、『アッシャー家の崩壊』で朗読に呼応する謎の音、『跳び蛙』の歯ぎしりなど、作品の重要なポイントでもあります。

ただ、ある方と話していて、小説家や読者の一定割合で、このような視覚的な意識や聴覚的な意識が、スッポリ抜けている人がいると、指摘を受けました。文字を読んでも情景が思い浮かばず、当然ながら文章での情景描写も苦手。必然的に、情景描写は脚本のト書き的になります。

これが映画などの脚本や漫画原作ならば、監督や役者や漫画家が、そこを視覚化してくれるのですが。

たぶん、小説が視覚情報や聴覚情報がないのでホラーに向かないというのは、文字情報から視覚イメージや聴覚イメージを再構築するのが苦手な人の意見である可能性が。議論の前提が、そもそも違うのです。

④GUIとCUIのこと

例えば、現在のパソコンはGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)が主流で、アプリのアイコンをクリックして使う、非常に直感的な作りです。元は、XEROXのAltをルーツとし、Apple社のMacintoshが世に知らしめ。Windows95で、世界に普及しました。

一方、MS-DOSなどの時代はCUI(キャラクター・ユーザー・インターフェイス)で、コマンドラインという呪文のような文字列をキーボードで入力して、動かしていました。現在も、UNIX系はコマンドを用います。

GUIに慣れていると、CUIに最初は戸惑いますが、コマンドの意味などが解ってくると、無意味に見えた文字列も、イメージが湧きます。ウェブデザインも、HTMLやCSSの意味が解ると、その命令文でどのような図形やインターフェイスが形成されるか、イメージがわきます。

してみるとホラーも、小説という形式の問題ではなく、読者や受け手の問題、あるいは創作側の問題ということに、なりそうです。

⑤恐怖は魂が生み出す

話を、始祖ポーに戻して。
視覚的聴覚的な小説の名手であったポーですが、当時のゴシック小説に対して、恐怖とはゴシックの形式が生み出すのではなく、魂が生み出すモノだと語っています(that terror is not of Germany, but of the soul)。

ここが天才作家の慧眼で、そういう視覚的聴覚的な情報を読者に与えれば、自然に感情を揺さぶるモノ(恐怖でも感動でも悲しみでも)ができるわけではなく。それらの要素が、呼び水になって読者の心に恐怖が形成される。

下の図のように、直角二等辺三角形が4個あって、それをバラバラに配置しても意味はなさないのですけれども、組み合わせによって菱形や十字や×印、砂時計型など、「無いはずの図形」が浮かび上がるようなものです。

情景描写は黒い直角二等辺三角形、生み出されるエモーションが無いはずの図形。このイメージがピンとくるかは、人によるでしょうけれど。


⑥プロに説教する素人

要素そのものではなく、要素の組み合わせで感情を揺さぶるモノを生み出すのが、演出と呼ばれるモノなんですよね。そこを指摘されているのが、山本貴嗣先生のこちらのポストです。でも、山本先生が指摘されるように、そこが解らない読者がいるのです……。

キャラの感情がドアップの顔芝居(泣き顔とか)を見ないとわからない人というのがいて、悲しんでいる人をそっとしておこう、という他者の思いとシンクロするようにカメラが引いてロングの後ろ姿になったりすると「この人悲しくないんですね」とか勘違いする客がいるという話は20年くらい昔も聞きました

https://x.com/atsuji_yamamoto/status/1746750745079361897?s=20

例えば、泣き顔どアップのあと、その人物がコッソリ隣の人にだけ見えるOKサインやVサインを見せる、そのカットが入れば、この泣き顔は演技で、本音は別にあると、解る人には解るのですが。涙とサインが、何を意味するかわからない。

あるいは、泣き顔どアップのあと、雨上がりの空に虹が架かるカットが挿入されれば、この人は今はつらくてないているけれど、やがて悲しみを乗り越えて、立ち直るのだろうと、予感する。これが映画で生まれた、モンタージュ理論です。

ところが、そこが解らない人は「変な作品だ」とか「つまらない」とか言い出し、しまいには「この作者下手だ」とまで言い出すんですね。「わからない」はまだ理解できるんですが、自分を基準にジャッジしてしまう。そう、ネットで見かける「プロに説教する素人」の誕生です。

⑦ヴァイオレット・エヴァーガーデン

京都アニメーションの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、言葉と心は必ずしも一致しないことが理解できない少女が、手紙の代筆という仕事を通して、言葉とは裏腹な心がある、ということを学び成長する物語。

「愛してる」の言葉も、恋人同士、父と娘、兄と妹、母と娘、母と息子などで、そのニュアンスは異なることを学ぶ。作中のヴァイオレットと視聴者が、共に学ぶ構造になっているのですね。

その言葉の裏側の意味がわからない視聴者も、ヴァイオレットへの説明で、噛んで含めるように理解でき、でも押し付けがましくない。また、理解力の高い視聴者は、展開を察して楽しめる。二重の意味で、傑作です。

⑧西行鼓ヶ滝

ここで、笑福亭鶴光師匠の落語『西行鼓ヶ滝』をお聞きいただきたいです。これは、摂津の鼓ヶ滝に来た西行法師が、その風景を「伝え聞く 鼓ヶ滝に 来て見れば 沢辺に咲きし たんぽぽの花」と歌に詠んだところから始まります。

しかし急に日が暮れ、一夜の宿を求めた民家の老爺・老婆・孫娘に推敲の余地を指摘され、「音に聞く 鼓ヶ滝を うち見れば 川辺に咲きし たんぽぽの花」と直されたお話です。原話は能楽の『鼓滝』から題材を取っています。

まず老爺は、鼓とは音のするものだから、「伝え聞く」ではなく「音に聞く」の方が良いのではと提案。老婆は、鼓は手で打つものだから「来て見れば」を「うち見れば」に直すことを提案します。孫娘も鼓とは皮を張ってあるので、「沢辺に咲きし」を「川辺に咲きし」にして川と皮を掛詞にしてはと。

・老爺→聴覚的な表現の推敲
・老婆→視覚的な表現の推敲
・孫娘→発音的な表現の推敲

こうやって、ただ寄ってたかってバラバラに修正してるのではなく、それぞれが目的を持っているんですね。そもそも、推敲という言葉が「僧は推す月下の門」を「僧はたたく月下の門」と、月の下の山門という視覚的な情景に、一夜の宿を求める旅の僧が門を叩くという、聴覚的な情報を加えています。

こういう視点で、文学を考えるのも、気付きがありませんか?

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