曹操ってどんな人?〔後編〕 曹操による虐殺・拷問処刑リスト。全て史実です

ブログ本体 https://shoku1800.tokyo/2021/09/post-4313/ より転載です。

前回、「曹操は“新解釈”という名の架空人物として作り変えられている」と書きました。

曹操を美化するために現在急ピッチで進められているのが、曹操にとって不都合な史実をカットしてしまうという歴史修正です。

前編:

たとえば『蒼天航路』という、曹操を完璧な英雄として美化した漫画。「曹操の虐殺はなかった」とする大量のインターネットへの書き込み。最近は中国学者が出版する歴史解説書で曹操を称揚する、等々。これらすべて、大規模な歴史修正の工作です。(このようなことが行われている背景は記事末をお読みください)

では、具体的に「曹操にとって不都合な史実」とは何か?

それは民衆虐殺や数多くの粛清、拷問処刑などの残虐な行いです。

今まさに歴史から消し去られようとしている曹操の真実を未来へ伝えるため、ここに彼の行った虐殺・処刑を書き出していきます。

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筆者と三国志

曹操にとって都合の悪い話を書くと、おそらく「演義(フィクション)信者」「蜀漢正統論者のアンチ曹操」などとレッテル貼りする人がいるだろうから先に自己紹介しておきます。

当ブログ筆者は小説や漫画などでフィクション三国志を通読したことがなく、ゲームも未経験。史書や解説書のみ読んでいる者です。したがって「演義フィクション信者」の「アンチ曹操」であるわけがありません。むしろ史実しか知らないために、歴史の書き替えやプロパガンダを許せないと思っているだけです。


無抵抗の捕虜や一般民衆を虐殺した史実

ここからが「曹操の虐殺・処刑リスト」です。

まずは、かつて有名だった虐殺事件から紹介していきます。

これらの話は昔、『三國演義』をもとにしたフィクションでも描かれていたそうです。しかしここ二十年内に出版されたマンガや小説、ドラマからは削除されているはずです。

削除されつつある理由として「虐殺事件は全て、曹操の悪人イメージを根付かせるための『演義』での作り話だから」と宣伝されているのですが、それは真っ赤な嘘。

実は全て史書に記された事件です。

『演義』は子供も愉しむ娯楽なのですから、むしろ曹操の悪行については控えめに表現されているほうだと言えます。現実の曹操の行いはフィクションよりも遥かに凄惨でした。


徐州の住民虐殺

かつては最も有名だった虐殺事件です。

曹操は徐州で何の罪もない住民を虐殺しました。

虐殺に至る経緯については史書によって異なります。しかし曹操が徐州で無辜の民を大虐殺したことでは複数の史書で話が一致しています。

どの程度の規模の虐殺だったのか? というと、たとえば『後漢書-陶謙伝』には次のように凄惨な記述がされています。

(徐州では曹操の軍によって)男女数十万人が殺された。鶏や犬など、動くものは全て殺されたため泗水(現在の山東省を流れる河川)は投げ込まれた死体で堰き止められ流れが止まった。この虐殺によって徐州の五県では人の姿が途絶えた。

なお、河に投げ込まれたのは陶謙軍の戦死者たちだったと記している史書もあります。(『魏書-陶謙伝』)

おそらく陶謙軍の兵士を皆殺しにしたとき、城内にいた非武装の男女子供も兵士と区別せずに全て虐殺したということでしょう。

「数十万人など殺されていない」「ほとんどの住民は飢餓で死んだだけだった」… 等々の反論が曹操信者たちによって叫ばれていますが、少なくとも徐州攻略にともなって一般住民がターゲットとなり、最も少なく記録された場合でも万単位で大量虐殺されていったことは確かです。

正史本文に詳細な記述が無いことを根拠として、「曹操の住民虐殺そのものが無かった。作り話、デマだ」とアクロバットな歴史修正をする信者もいます。しかし彼らが心の拠り所としている正史にも、実は以下の通り記述されています。

(曹操の陶謙討伐で)曹操軍が通り過ぎたところはどこでも多くの住民が虐殺された。

曹操について不都合な記録を掲載することが難しかった陳寿でさえ虐殺に触れたのですから、当時は大声で叫んでも問題ないほど大陸全土に知れ渡った話だったのだと考えて良いでしょう。

このように表現に差があるとは言え、複数の史書に記された虐殺を「無かったこと」に修正するのは不可能です。


捕虜は皆殺し、生き埋め処刑

曹操は敵と戦って勝利した際、降伏して武装解除している敵兵を問答無用で皆殺しとしました。

袁紹と戦った官渡の戦いでも、捕虜とした敵兵7~8万人を生き埋め処刑としています。この件は裴松之の注に次の通り記されています。

諸書にすべて、公(曹操)が穴埋めにした袁紹の軍勢は八万だったとか、あるいは七万だとかいっている。

〔翻訳文:『正史三国志1』ちくま学芸文庫 P46-47 ( )内は筆者による〕

本文には記載がなく、注にも曹操軍の数を推測するための情報として挙げられているだけ。

「諸書に」と書かれているのは、どの書物にも全て載っていたということでしょう。当時このことは広く知られていて誰の口にも上ったために、あえて正史に収録するまでもないと考えられたのかもしれません。

他に曹操は袁紹軍の糧秣や財宝を貯蔵していた烏巣を襲ったとき、全て焼き払ったあと、このような残虐行為をしています。

(袁紹軍の将らの首を斬り、捕虜数千人を殺害し)全員鼻をそぎとり、牛や馬は唇や舌を切りとり、袁紹の軍に誇示した。(袁紹の)将兵は皆、恐れおののいた。

〔翻訳文:同上〕

なお当時も現代と同じく、捕虜となり無抵抗となった兵士を処刑することは“非道な行い”として大非難を浴びました。よく「古代は虐殺が許されていたんだ!」だの、「当時の人々は曹操の捕虜殺害を素晴らしいこととして称賛した!」だのと言って正当化する曹操信者がいますが、無抵抗の人々を虐殺することが称賛された時代は人類史に一度もありません

かつて大陸全土を支配した秦が、侵略した先の兵士・住民を全て生き埋めにしたことは中華の長い歴史においてずっと極悪非道な悪行として非難されてきました。

項羽が天下を制することができなかったのも、捕虜を生き埋めとしたからです。

(現代の中国共産党とそのシンパだけが生き埋め・虐殺を称賛しています)

このように捕虜の生き埋めは古代の人々にも衝撃を与え、その行いをした者は評価を下げます。

ところが曹操の生涯では生き埋めの話があまり有名ではありません。これは中華でイレギュラー。何故なのか推測するに、おそらく曹操は他の行いがあまりにも残虐過ぎて、捕虜生き埋めさえも目立たなくなってしまったのではないでしょうか?

それだけ曹操の残虐性は同時代の人々に有名だったということです。現代で声高に叫ばれているように、『演義』が創作されて以降に曹操のイメージが悪くなったわけではないのです。


その他、住民ごと虐殺した攻城など

他、曹操の虐殺は多過ぎるため解説を割愛します。

事件の一覧は、知恵袋の一級マニアさんの回答が優れているため引用させていただきます。

曹操が⾏ったとされる虐殺や拷問の記録を詳しく教えてください」BA、te9********さんの回答より。

①虐殺等
・屯雍丘。太祖攻圍數⽉、屠之(呂布伝)
・屠彭城(武帝紀)
※198年の呂布討伐の時
・曹操攻屠鄴城(後漢書孔融伝)
※⽔攻めで破壊されてる。内部も悲惨なことになった。
この後に’袁⽒婦⼦多⾒侵略’という記述が続く。
・太祖征三郡烏丸、屠柳城(公孫度伝)
・淵與諸將攻興國、屠之(武帝紀)
・冬⼗⽉屠枹罕斬建(武帝紀)
・公攻屠之(武帝紀)
・仁屠宛斬⾳(武帝紀)
曹瞞伝によると⾼負担がきつくて反乱した⺠が相⼿だった。
※陳寿の三国志でも周辺地域は⾼負担だったという記述があるので
曹瞞伝の反乱の経緯を否定するのは難しそう。
「屠」の使⽤例
・徐州虐殺(曹瞞傳に’引軍從泗南攻取慮、睢陵、夏丘諸縣、皆屠之’という記述あ
り)
・屠咸陽(項⽻のアレ)
・吳漢屠成都(後漢書光武帝紀)
※⼤虐殺。蜀攻略した鄧艾も「俺は呉漢ほど酷くないよ(笑)」という
趣旨のイきりでこの例を挙げる
→確実に有名どころの虐殺と同じ、と断定できるかは難しいところが
少なくともかなり⾎なまぐさい表現であることは確か。
ちなみに孫呉は2,3件記述はありますが蜀漢は0
・太祖令曰「城拔、皆坑之」(曹仁伝)
→曹操の命令が結局実現したのかは微妙なところ。
※これは⾔うまでもなく⽣き埋めの「坑」です。
官渡の虐殺や⽩起のアレ、焚書坑儒と同じ。
・⾚壁の敗⾛中に不通となった泥道を通るに兵を踏みつけて⾏軍
もちろん死者が出ました(⼭陽公載記)
・吉邈・吉穆・⾱晃、少府の耿紀ら反乱で「消化した」と答えたもの全員
(獻帝春秋)

追記より。漢文表現による虐殺の度合い。「屠」は最も凄惨なときに使われるという話:

虐殺否定論者は
勝⼿な俺ルールや定義を作り
それを満たさないから虐殺ではない︕
と騒ぐ
このやり⼝は本当何なんでしょうね
否定したい、が先⾏してるからそうなるんでしょうか。
‘虐殺’の定義が⼈によって違うんでしょうね。
「⼀⼈残らずぶっ殺すジェノサイド」とか
「非戦闘要員を⼤量に殺す」とかじゃないと虐殺と表現してはいけない︖
そこまでハードルを上げられると困ります。
‘凄惨にぶっ殺す’ぐらいの意味合いで⽐較的幅の広い表現だと僕は思って
ますが・・
話は戻り「屠」は「破」「定」「略」「降」「抜」とかに⽐べたら
凄惨さ・残虐度は強調されてる表現と考えて良いと思います。
>天下統⼀の過程でそうとう酷いことをやった(少なくとも部下にやら
せた)、
のかそうでないのか、ということですね。
300の城というのは誇張表現⼊ってると思いますが
多くの戦いで凄惨にぶっ殺したぐらいには受け取りますね、⾃分なら

マニアの方って本当に凄いなと思い知った回答でした。正史を読んだことがあっても、ここまで網羅的に把握することは難しい。

ネット上に史実を書きこんでくださったことについて、最大感謝。知恵袋の運営は曹操にとって都合の悪い回答を削除しますので、知恵袋以外でも広く書き込んでいただきたいですね。

都合の悪い回答が削除された話:

粛清と拷問処刑を楽しむ日々

曹操は戦争で非戦闘員の虐殺を行っただけではなく、身近にいる人々も日常的に処刑していました

権力を得るために邪魔な人々を粛清するのは当たり前。

自分に意見する者はうっとおしいから処刑。

自分を批判的に言った者は、遠く離れた場所まで追いかけて処刑。若い頃に侮辱されたという小さな怨みも忘れず復讐。

長年の功績があった賢臣や、親しかった友人、命を救ってくれた恩人、恋人(愛人)に至るまで、少しでも気に食わないことがあると激怒して殺してしまいました。

“息を吐くように”嘘をついた、だけではなく、三度の食事するように人を殺したのが曹操です。

まるでマンガ。いや、マンガでもこんなチープな殺人狂は見当たりません。フィクション作家なら、史実曹操のような幼稚な殺人狂を登場させると作品自体がチープになってしまうから避けますね。

(追記:だから吉川英治は、小説『三国志』で曹操を織田信長っぽく修正し、ちょっと魅力的な敵役として表現したのです。史実曹操のようなチープな敵役を登場させて作品を劣化させるのは、日本人の矜持にもとるということでしょう)

以下、殺害の具体例です。

自分をもてなしてくれた親切な一家を皆殺し

曹操の若い頃の殺害事件として有名なのは、董卓から逃亡中に自分を救済してくれた呂伯奢(りょはくしゃ)の一家惨殺でしょう。

これはフィクション『演義』でも描かれるエピソードですが、曹操信者は例によって呂家惨殺事件も「我が曹操様を誹謗中傷するためのデマ」と主張して無かったことにしようとしていますのでご注意を。

ただ、史書によって殺害までのパターンは様々あり真相が分かっていないことは確かです。

・パターン1 曹操崇拝の書によれば「正当防衛だった」

曹操が呂伯奢の家へ立ち寄った際、主人は留守だった。息子たちが曹操の馬と荷物を盗むために曹操を殺そうとしたので、正当防衛で殺した、とする説。

これは曹操を称揚するために書かれた『魏書』の話なのでマユツバと思ったほうがいいでしょう。裕福な家庭の子供たちが何故、曹操を見ていきなり馬を盗もうとして襲うのか? 理解に苦しみます。殺害を正当化するために呂家の人々へ濡れ衣を着せた作り話である可能性大です。

・パターン2 世間の記録書によれば「曹操の勘違いで一家皆殺し」

呂伯奢が留守中に息子たちが曹操を丁重にもてなしたにも関わらず、通報されたら困ると考えて一家を皆殺しにしておいた。(『世語』)

または、食事のために食器を用意する音を武器の音と勘違いして、「殺される前に殺そう」と考え一家斬殺した。(『異同雑語』)

私が思うに、後年の曹操の行動と照らし合わせて『世語』の話が最も史実らしいと感じます。曹操は「食器の音を刃物の音と勘違いした」などということさえなく、ただ後で通報されたら困ると思ったので家族を殺しただけ。サイコパスなら一宿一飯の恩義など抱くわけがありませんし、殺害する理由として勘違いさえも要らず、ただ「相手がこの世にいたら後々自分が不利になるから」という僅かな理由だけで事足ります。

サイコパスのような人格障碍が存在することを知らなかった古代の人々には、曹操の呂家皆殺しの行動が信じられず「勘違いで殺してしまった」という理由を後付けしたのではないでしょうか。

参考。曹操は現代精神医学のサイコパス定義に高確率で該当します(専門テストで判定済):

なお、『演義』でも有名であるらしい発言、

われ人に負(そむ)くとも、人われに負(そむ)くことなからしめん

は曹操が呂家皆殺し直後に言い捨てて去った言葉として『異同雑語』に記されています。ここも付け足しの創作では?と感じますが、曹操の人格を表した的確な言い回しと思います。


快楽殺人のために法を厳格化?

曹操は二十歳のとき官僚デビューしました。間もなく首都・洛陽の北部尉(警察署長)となりますが、ここで法を厳格化して苛烈な刑罰に勤しみます。

このときさっそく本領発揮で、たくさんの人を殺しています。『曹瞞伝』より具体的な記述を引用。

曹操は洛陽の北部尉として着任すると、街路の関門を改修し、五色の棒をつくって、門の左右に十数本ずつかけ並べた。そして禁令に違反する者があると、どんなに権勢のある相手でも遠慮なくひっ捕らえて、棒で殴り殺した。
こうして数か月たった。当時、霊帝に寵愛されていた宦官に、蹇碩という者がいた。その叔父が禁令を犯して夜間外出したところ、曹操はすぐさま捕えてこれを殺した。これで都全体がふるえあがり、以降、禁令を犯す者はいなくなった。近習や寵臣たちはみな曹操を憎んだが、さりとて追放する口実もない。そこで、口をそろえて曹操を推挙したので、頓丘県令に栄転させら、都を離れることになったのである。

〔翻訳文引用:『正史三国志英傑伝』徳間書店 P32〕

殺人鬼の曹操が禍となったので、策を講じて追放したということになります。

曹操信者たちはこのときのエピソードを「曹操様が法律を守る優秀な法家だった」と持ち上げるためによく引用しますが、共産国家と同じく明らかに権力者(自分)のためだけに敷いた恐怖政治です。

(略)

数年後、曹操は黄巾乱の鎮圧で功績をあげて済南国の知事となります。このときも彼は苛烈な法を用い、賄賂を受け取っていた役人の八割を罷免、宗教や迷信を禁じて厳格に処分しました(つまり道教などを宗教弾圧で潰したわけですね。現代中共の法輪功弾圧に似ています。こういう史実も、共産主義者たちにとって曹操を称賛する根拠となっています。法輪功が曹操を称賛するのは、彼が儒家だけを弾圧したのだという勘違いをしているからでしょう。 ※法輪功は道教+キリスト教の一神教。儒教を憎んでおり、儒家が弾圧され殺されることを喜ぶ。それで始皇帝や曹操を称賛している。…最低)。

「賄賂を受け取っていた役人を罷免、迷信を厳罰に」とは一見、正義を行って善い政治をしたかのように思える文章です。曹操を正統王朝の始祖とする正史の記録ですから当然でしょう。

ただ、このときは曹操の厳格な施政で「国中が静まり返った」と書かれているので、拷問処刑を用いた恐怖政治で自由を失い言論も封じられた共産国家のような状況になったことが推測できます。


趙彦など献帝の忠臣たちを次々粛清

献帝が曹操に迎えられ許へ遷って以降、曹操は献帝を完全な操り人形とするために、宮廷の人々を次々に粛清していきました。

特に衷心から帝に仕える者が曹操には邪魔でした。たとえば趙彦(ちょう・げん)などは帝に献策して褒美を賜わられたため、曹操の怒りを買って即刻処刑されました。

この当時に曹操に粛清された人々はあまりに多かったためか、全員の名は残っていません。史書には粛清の状況について

其餘内外、多見誅戮(内外で曹操によって誅殺された者が多くいた)

〔『後漢書』〕

と一まとめに書かれており、その代表として上記の趙彥の名が挙げられているだけです。

董承と関係者全員処刑、皇帝の子を身ごもる妃も殺す

董承が企てた曹操暗殺事件は未然に発覚し、関係者は全員処刑となりました。もちろん一族皆殺しです。

この事件によって献帝の忠臣はほとんど粛清されたと言えます。

董承の娘は献帝の妃で、ちょうど暗殺未遂事件のとき献帝の子を身ごもっていましたが、彼女も一緒に処刑されています。

外戚に収まるため邪魔な皇后を処刑、皇帝の実子も毒殺

皇帝の子を身ごもった妃まで平気で殺す曹操に恐怖を覚えた皇后の伏寿(ふく・じゅ)は、父の伏完(ふく・かん)に曹操を排除するよう手紙で頼みました。ところが父は曹操排除の行動をする前に亡くなってしまいます。

後年、皇后が父に曹操排除を頼んだ手紙が発覚。

怒った曹操は伏寿を廃后とするよう献帝に申し出、伏寿の投獄を命じました。

伏寿が隠れていた部屋から引きずり出されたとき、髪が乱れ裸足のまま泣きながら献帝に助けを求めましたが、献帝は「自分もいつまで生きられるか分からない」と言うだけで成すすべが無かったと言います。伏寿はそのまま投獄され、獄中で死亡しました。
(他にその場で撲殺されたなど、複数のパターンあり)

伏寿の子、つまり献帝の子でもある兄弟は毒殺。伏氏一族も数百人が処刑されました。

この事件で皇后の座が空いたので、曹操は自分の娘を皇后として献帝に差し出し、無理やり受け入れさせます。こうして曹操は、献帝の外戚としての立場も手中に収め皇帝を上回る実権を得ました。

この事件は邪魔な皇后を殺すための粛清だったという見方で歴史家の意見は一致しています。

私怨で処刑された人々

曹操は献帝を迎え入れて実権を掌握した直後から、たくさんの人々を私的な怨みや嫌悪で殺し続けたようです。

殺された人の名が全て残っているわけではありません。裴松之注『魏氏春秋』陳琳の檄文などから、かろうじて記録された被害者の名を拾い上げます。

・辺譲(へん・じょう)

非常に博学で優秀、弁論に秀でていたため人気を集めたとのこと。曹操にも頭を下げずに批判的な議論を続けていました。この議論が発覚して家族とともに処刑され、さらし首にされています。

陳琳の激文によれば、この天下に名を馳せた英才を処刑したことが、張邈・張超らの曹操に対する反乱につながったとされます。ただし辺譲が殺された時期については諸説あります。

・袁忠(えん・ちゅう)

かつての沛国の相。当時、曹操が法を犯したので処罰しようとしたことがありました。このことをずっと怨んでいた曹操は権力を得た後、復讐で彼の殺害を目論みます。

辺譲が言論弾圧で家族ともどども処刑された事件を知り、危険を察した袁忠は遠く交州(ベトナムの辺り)へ亡命しました。ところが、曹操は使者を派遣して交州を治めていた豪族の士燮(し・しょう)へ殺害を依頼。袁忠とその一族を皆殺しにしてしまいました。

・桓邵(かん・しょう)

袁忠と同じく交州へ逃れていましたが、曹操の差し金で一族皆殺しとなりました。
若い頃に曹操を侮って認めなかったため復讐されたそうです。


孔子の子孫も、曹操に意見したため殺された

孔子の子孫で博学として名高かった孔融も、曹操に処刑された一人です。

いわゆる「直言居士(ちょくげんこじ。相手が誰であれ言いたいことをはっきり言う人)」の代表だった孔融は、恐怖政治を敷いていた曹操に対しても臆することなく率直に意見していました。

彼が孔子の子孫で名声も高かったためしばらくは耐えていた曹操ですが、疎ましく思って殺す機会を狙っていたようです。赤壁戦の直前、ついに「孔融が朝廷を誹謗中傷した」という罪をかぶせて妻子とともに処刑してしまいました。

儒教を憎んでいる曹操信者たち※から、「孔融は屁理屈の説教ジジィだったから曹操様に殺されて当然♪」などと悪しざまに言われている孔融。ですが、人へ面と向かい率直に意見するのは誠実さの証。

孔融は相手に面と向かって意見する代わりに陰ではその人を称賛していました。相手のためを想うからこそ率直に意見するタイプ。偏屈で変わり者ながら善人です。ただ史上最凶のパワハラ独裁者に仕えたことが不幸でした。

※曹操信者たちは何故、孔融が殺されたエピソードを好む?

曹操信者たちは、曹操が孔子の子孫を殺したというこのエピソードを何よりも好んで称賛します。

何故なのかと言えば、曹操を好き好きと崇めている曹操ファンの90%以上がオールド左翼(ここで左翼とは共産主義者のこと。在日コリアンを含む)だからです。

共産主義者たちはその国の伝統を破壊することを第一の目標として掲げています。日本~中国など東アジアにおける古いタイプの共産主義者にとっては儒教という伝統が最大の破壊ターゲット(現代中国だけ例外)。このため東洋の左翼たちは、自分たちの敵である儒学者を殺した人物を称賛します。たとえば焚書坑儒をした始皇帝などを崇めているのも左翼です。

儒家を弾圧した歴史上人物のなかでも、孔子の直系子孫を殺した曹操は共産主義者にとってスーパーヒーローであるわけです。だからこそ毛沢東も曹操を「善人」のリストに振り分け、曹操を美化した歴史解釈を命じたのです。当記事後半参照。


自分に尽くした伝説的名医を拷問処刑

曹操は自分を治療した名医の華佗(か・だ)にも凄惨な拷問を加えて殺しました。

華佗は当時に活躍した伝説的な医師です。漢方や薬草に通じ、どのような病でも原因を究明して治したうえ、再発の時期まで言い当てたと伝えられています。あの時代に麻酔まで使って開腹手術も行っていたそうですから、稀代の天才医師と言えるのではないでしょうか。

そんな華佗も曹操の頭痛を治すために雇われたことから人生を狂わせました。

華佗は曹操に尽くしましたが、医師としての扱いしか受けず見下されたため故郷に戻ります。その後、「妻が病気だ」と言って曹操のもとに帰りませんでした。

しかし妻の病が偽りであることを知った曹操は激怒し、華佗を投獄して長期間の拷問を加えて殺してしまいました。

死の直前、華佗は牢番に自分の医学書を渡して後世に残すよう頼みましたが、曹操に処罰されることを恐れて牢番は受け取りませんでした。このため華佗の医学は闇に葬り去られました。

曹操はその後、頭痛がひどくなったとき華佗を殺してしまったことを後悔したそうです。

名医を酷い拷問で苦しめて処刑したことを後悔するのではなく、あくまでも「自分の頭痛を治す便利な道具を失った」ことだけを残念だと言った曹操。どこまでも利己的で自己中心。

曹操自身が病に苦しんで死んだのは完全に自業自得でしょう。


暗号を読み解いた賢臣を褒めずに処刑

楊修(よう・しゅう)は控えめで賢い事務方の高官でしたが、不可解な理由で殺されています。

曹操が劉備と戦ったが漢中を取ることができず「鶏肋(けいろく)」という暗号を発したが、その言葉が「撤退」を意味するとただ一人察した人です。そのことを褒められるどころか、直後に処刑されています。

彼が袁紹と縁続きだったから曹操に警戒されて殺されたとか、曹植を支援していたからなどと説明されることが多いのですが、処刑の真相は不明です。袁紹と縁が深いので殺したのだとすれば、何故このタイミングで処刑したのかの説明がつきません。曹植との関わりが理由だとしても同様。

しかし現代知識で曹操をサイコパスと見れば処刑の理由が推察できるかと思います。

おそらくこのときは楊修だけがただ一人「鶏肋」の意味に気付いたので、裏に負け惜しみの心理があることにも気付かれたに違いないと曹操は恐れた。そんな恥ずかしい自分の本心を楊修が、「曹操が負け惜しみで“鶏肋”と言った~」などと触れ回って嘲笑されるのでは、と考えて耐えられなくなった。だから“秘密”を言いふらされる前に先回りして彼を消したのでしょう。

つまり、楊修処刑に至る思考の道筋は若い頃に犯した呂家皆殺し事件と同じ。

常人には理解しがたい思考回路なのですが、サイコパスは「自分にとって不利となる情報を持つ者」をデリートキーで消すように処分するという行動をとります。自分が犯したミスの穴は全て塞いでおかねばならないという脅迫観念を持っており、そのために不都合な物は、たとえ人の命であっても迷うことなく“デリート”するわけです。


その他、不当に処刑や処罰された人々

他にも不当な理由で処罰された人々は山ほどいます。
詳細は一記事内でとうてい書ききれませんので、名前と簡単な解説に留めます。殺された方々には申し訳ないです。

・婁圭(ろうけい)

かつて劉表と手を組んだ群雄の将。後に曹操の配下となりました。曹操について悪口を言ったと疑われて処刑されました。

・許攸(きょゆう)

もと袁紹の配下。袁紹軍に不利な情報を曹操に提供し、勝利に導きました。

このような多大な功績があり曹操の幼馴染でもあったことから、日頃から曹操には馴れ馴れしい態度をしていたが、曹操は不快を覚えていたとのこと。
鄴を攻め取ったとき、「自分がいなければ曹操はここを落とすことはできなかった」と自慢したのでついに曹操を怒らせ処刑されました。

・崔琰(さいえん)

立派な容姿の持ち主。醜い容姿だったために使者と会うことができなかった曹操が、代役としてよく立てたのがこの人だそう。

無実の讒言で投獄されましたが、牢でも堂々として見えたことが曹操を怒らせ自害を命じられました。

推測するに、いつも自分の代役として立てていた崔琰の顔のほうが知れ渡ってしまったので、取って代わられることを恐れて始末したのではないでしょうか。

・毛玠(もうかい)

清廉潔白、公平さが評判だった賢臣。
曹操に引き立てられて人事権を得ましたが、崔琰への不当な処罰に不満を述べたと讒言されて曹操の怒りを買い、投獄されました。
彼が無実であると主張する人がいたために処刑は免れ家へ帰されましたが、投獄時の(おそらく拷問による)衰弱から回復できなかったのか死亡。

・荀彧(じゅんいく)

曹操の補佐役で、最大の功労者。
「王佐の才」と名高く、プライド高い曹操の本質をよく見抜き、健気に補佐を続けました。袁紹との闘いでは的確に献策して曹操を勝利へ導いています。

しかし後年、曹操が九錫を受けようとしたとき(つまり自分は皇帝に次ぐ者であると世に誇示しようとしたとき)、荀彧が道理を説いて激しく反対したことから曹操との関係が冷え込みました。

曹操信者たちは「荀彧は勝手に鬱病となり自殺したのだ」と主張していますが、有力な説によれば曹操から中身が空の箱を送られて「お前は用済み。要らないから死ね」というメッセージを察し、やむなく自害したとされます。

・寵姫(愛人のこと。名前は不明)

前記事にも書きましたが曹操の評価として裴松之注に掲載された話。

曹操は昼寝する際、気に入りの愛人の膝を枕に寝ていたが、あるとき
「少し経ったら起こしてくれ」
と言ったのに愛人が起こすのが遅かったという理由で激怒し、彼女を棒で殴り殺したとのことです。

・兵糧係(名前は不明)

これも同上。

敵の討伐に赴いた際、兵糧が少なくなってきました。そこで係の者を呼び、「どうすれば良いか」と尋ねたところ、「測る升を小さくすれば良い」と献策されます。
その案を採用してしばらくはうまくいっていたのですが、そのうち分配される食糧が減っていることに気付いた兵士たちの間で、「曹操が升を小さくして自分たちを騙している」との噂が流れます。
曹操は悪評を逃れるため献策した担当者に「この者が食料を横領していた」という濡れ衣を着せ、処刑してしまいました。


曹操の虐殺・処刑を「無かったこと」に歴史修正する信者たちの手口

……以上。

駆け足で曹操の虐殺・処刑を列挙してきましたが、このリストを書くだけでも大変な時間がかかり疲弊しました。

現実はもっと大量の被害者がいたはずです。曹操が殺した人の数は、全生涯の日数(365日×67)で一日十人の計算では足らないほどでしょう。一日百人でさえ足らないかもしれない。

恐るべきパワハラ上司と言えるでしょう。功績を上げても疎まれて自殺に追いやられるし、賢くても有能でも、また無能であっても殺されてしまうからです。

もしこのような人物が近現代に存在して科学兵器を利用できたとすれば、虐殺数でヒトラーなど足元には及ばず、毛沢東さえ軽々と超えるだろうと想像します。

通常の感覚を持つ人間ならば、このような殺戮魔に心酔して崇拝するということはあり得ない※でしょう。

※ときどきサイコパスに性的興奮を覚えて崇拝する人たちがいますが、これは“変質者”、俗に言う変態です。少々危険ではありますが、大規模な害を及ぼすことはありませんので放置して構わないと思います。近所にそのような人が住んでいて気になるようなら、危険人物として警察に通報しておきましょう。

たくさんの罪なき人たちが殺されたことに憤りを覚え、殺戮魔に嫌悪を抱くのが正常な人間です。

だからこそ曹操は同時代の人々から憎まれていましたし、フィクションでも1800年もの間悪役として憎まれてきたのです。

しかし呆れることに、現代で曹操を崇拝する信者たちは虐殺の史実を「無かったこと」に歴史修正するか、「正しい行いだった」と歪んだ解釈で正当化しています。そうすることによって曹操を英雄化し、新たな曹操信者を獲得して洗脳すべく日夜布教活動に勤しんでいます。

以下に引用するのは、そんな曹操信者による歴史修正・正当化の具体的な手口。体験者であるマニアさんたちの書き込みによります。


曹操信者の被害者バイアス? 歴史修正の手口

こちらは既出のマニアさんが語る、「曹操信者による歴史修正の手口」詳細です。

te9********さん回答の補足より。

史書を無視して虐殺の否定・正当化、敵対者の悪事をでっちあげて留飲を下げるのは恥ずかしいことだと僕は思います。
そういう言説が発生する原因は「曹操は不当に扱われている」という被害者意識バイアスゆえだと思います。
完成度や公平簡潔さに定評がある
陳寿の三国志で曹操は一見すると礼賛的論調で書かれてます。
しかし徳業面で称賛されてる劉備・諸葛亮とは対照的に
曹操への称賛は能力面に限り、徳業面では評価されてません。
仮にも魏の創始者なのに、です。
先行回答者は史実重視の考え方をしてる方だと思いますが
それでも’曹操嫌いな方の意見’とフィルターを貼ってしまうのは
残念です。

>そういう言説が発生する原因は「曹操は不当に扱われている」という被害者意識バイアスゆえ

まあ、これがネットにおける定説ですね。
曹操信者の歴史修正、史書を無視した歪んだ正当化が異常過ぎるので、「被害者バイアス」という解釈で皆が納得している。それにしても集団催眠にかかっているかのように異常な夢を見ている信者が多過ぎることを、不自然だと感じないのでしょうか。

引用続き。

徐州虐殺否定・矮小化・正当化論とホロコースト否認論のやり口が似てるというのはあると思います。
過去にあったやり取りを挙げてみます。

否定論者の主な主張①
・アンチ曹操本だけが書いている
→陳寿の三国志でも書かれてます。
・短期的に大量虐殺できるわけがない
→効率的に殺傷したという記録が陳寿の三国志にあるのに独自の俺ルールで実現可能性を否定する暴論。
・徐州が荒れたのは曹操のせいではない
→曹操の侵攻して荒れたと陳寿の三国志に明記されてます。
もちろん曹操だけが荒らしたわけではないですが
原因の比重を’俺の感想’で変えるのは暴論。
・同時代で虐殺は言及されていない
→言及箇所はあります。
・曹操支配後の徐州は安定していたから大虐殺はなかった
→昌覇が複数回反乱を起こすなど政情不安でした。
特に劉備が反乱を起こした時は郡県の多くが叛くほどでした。
否定論者の主な主張その②
・徐州虐殺の言及箇所は少ないから大虐殺ではなかった
→何故膨大な言及がないとダメなのか
官渡の捕虜坑殺は一々言及されてないから捏造、というのと同じ理屈
→曹操は徐州以外でも虐殺、あるいはそれに類似した行為が多く
曹操を非難する者は総論で曹操は暴虐と形容したりします。
50以上の犯罪を犯した者を非難する声明に10の犯罪の言及が少ないから
10の犯罪はなかった、というのと同じ暴論
・徐州はその後曹操の支配下になったんだから大虐殺ではない
→「戦後日本の親米外交は原爆は大虐殺ではない」というのと同じ理屈
全く関係ない話を結びつける的外れな理屈。
・曹操は虐殺を反省した→反省したという記述はありません。
部下の荀彧などは虐殺を’威罰’と形容し、まるで曹操が悪い奴を懲らしめたやったかのような言い方をしていました。

……等々

note記事にしては長すぎるため略します。

以降は、本体ブログでお読みください。

以降の内容:

・ネットで大量書き込みされている曹操信者の反論手口

・「正史の曹操って虐殺ばかりしてるよな」より引用

・この手法はネオナチ、共産主義者と同じ

・何故、曹操は美化されているのか? 歴史修正の背景